Bye bye lullaby
Lilys bye
若い男の声が異国の唄を歌っていた。
物悲しい響きの旋律が、風に乗って切れ切れに聞こえてくる。
「カカシの奴が歌ってるよ」
クナイを磨く手を休めず、ぼそりと男が呟く。
「また、お人形遊びか。飽きないねえ」
別の男が小さく笑う。最初の男が眉を潜める。
「どうすんだ? あのお人形さん」
「さあ。カカシは手放す気がないみたいだし、隊長も捨てろたあ言わないからねえ」
男たちは、しばらく黙って武器の手入れをする。
ふと、一人の男が一小節を口ずさんだ。そして、一小節だけでやめる。
「難しいや、異国の言葉は。カカシは、よくあんなに歌えるもんだな」
「ああ。カカシは一度、聞いたら覚えて忘れないらしいぜ。わけのわかんない発音でもさ」
「天才は違うね」
唄が途絶えた。
男たちは同時に唄が聞こえていた方向に顔を向けたが、すぐに武器に視線を戻し、その後は何も語を発することなく人殺しの準備だけを続けた。
少年期を過ぎて、やっと青年と呼ばれるようになったばかりの年頃に見えた。
背が高く、木の葉暗殺特殊部隊の制服がよく似合っている。
銀色の髪に縁取られた顔立ちは端正で、右の瞳は濃紺をしている。
左の瞳は写輪眼と呼ばれる血継限界の紅の瞳で、頬にかかるまで傷がある。
その異相をもってしても、美しい青年だと言えた。
「はい、できた」
今まで異国の旋律をたどっていた口から、どことなく弾んだような言葉がもれる。
「さっぱりしたでしょ? これだけ汗をかけばさ、熱もすぐ下がるよ」
優しく囁き、いらえのない身体に衣服を着せていく。
まだ少年の線を残した白い身体。
さらりと肩にかかる黒い髪。
何も映さない黒い瞳。
鼻を横切って一文字の傷痕があり、それが、なぜかかえって彼を優しい面立ちに見せていた。
「カカシ」
天幕をまくって、低い声がかけられた。
「さっさと閉めろよ。風が入るだろ」
カカシと呼ばれた青年は、入ってきた者に目も向けない。
「じきに総攻撃だ」
「ふうん」
「俺たちは、総大将を狙いにいく」
「はいはい」
「人形遊びをしている場合じゃないぞ」
カカシは、男を両の瞳で睨んだ。
「イルカを見殺しにしろって?」
「そうは言っておらん。じきに救護班も着くから、そっちに引き渡せ」
「嫌だ」
イルカと呼んだ少年を、カカシは抱きしめる。
「オレが拾って助けたんだ。オレのものだ」
「カカシ」
男は大きく息を吐いた。
「犬の仔じゃないんだ。この子だって木の葉の忍だ。里に返さにゃならん」
太い腕を伸ばし、男はイルカの肩を掴む。
その瞬間、何の反応もなかったイルカの身が動き、小刻みに震えだした。
「大丈夫、大丈夫。オレがいるから。大丈夫。誰にも、イルカに非道いことさせないから」
カカシは、イルカを幼子をあやすように抱き、優しく繰り返す。
イルカの震えが止んだのを確かめ、カカシは男に視線を当てる。
「イルカが怯えるから、さっさと行けよ。ったく、せっかく下がってきてたのに、また熱が上がったら、どうしてくれんだよ」
「す、すまん」
男は、なんとも情けない顔をする。
「総攻撃だろ? ちゃんと働いてやるよ。他の奴の倍も三倍もさ。だから、イルカに触るな」
それ以上、返す言葉を持たず、男は天幕から出ていった。
カカシは、イルカを抱く手に力をこめる。
「何も怖くないよ。オレが守ってあげるから。ずっと、オレがイルカを守ってあげるから」
カカシの唇が、子守唄の旋律をたどった。
Bye bye lullaby
Lilys bye
カカシたち暗部の大隊が戦地に入ったときは、既に緒戦を決していた。
情報収集に駆けまわっていたカカシは、木の葉の生存者を発見した。
認識票によると、うみのイルカという中忍になったばかりの少年だった。
傷は致命傷にまでなっていなかったのだが、よほど戦闘の衝撃が強かったのか、なんらかの精神的拷問を受けたのか、イルカは感情の全てを失っていた。
そのイルカを、カカシが手当てした。
その様は他の者を驚かせた。
六歳で中忍になり、写輪眼を得て、どこか人を寄せつけない感のあるカカシだったから。
人にも物にも、およそ執着というものを示したことがない男だったから。
人形遊びだと揶揄されながらも、カカシが、唄を口ずさみつつイルカの世話を焼くのは、ここ最近の隊での日常になっていた。
カカシは、イルカの周囲を柔らかい布地で囲み、楽なように凭れさせた。
「すぐ戻ってくるから。じっとしててくれよな」
そっと言うカカシに、イルカは珍しく腕を伸ばした。
その手をとり、カカシは自分の頬に当てる。
「大丈夫だって。すぐ終わるから」
思いついて、少し色の悪いイルカの唇に、己の唇を当てる。
温度を確かめあうようなキスだった。
イルカの唇は、柔らかくて暖かかった。
集合、の合図に名残を惜しみながら唇をはなし、カカシは表に出た。
念入りに印を結んで呪を唱え、天幕に結界を張る。
そして、カカシは決戦に飛びこんでいった。
それはイルカにとって、夢のなかで夢を見ているような日々だった。
柔らかいが粘っこく身について離れないもののなかで、身体が動かせない。
暖かく力強い腕だけが、自分を守ってくれる。
その腕に、すがってさえいれば良かった。
耳に響いてくる、まったく意味をなさない言葉の唄。
それだけを聞いていれば良かった。
それなのに。
寒い。
どうして、今、あの腕がないのだろう。
どうして、今、あの唄が聞こえないのだろう。
寒い。
嫌な匂い。
嫌な音。
嫌な声。
イルカは声にならない声をあげ、何かを求めるように手を伸ばした。
「ちぇっ。また一の手柄はカカシに持ってかれたのかよ」
「年季が違うからね〜」
「けっ。いちばんのガキのくせしやがってよ」
「やれやれ。これで、しばらくぶりに里に帰れるぜ」
「酒があるぜ。一杯やるか?」
「オレはいいや」
「また、お人形遊びか?」
「なんとでも言えよ」
一種の躁状態になっている仲間と別れ、カカシは自分の天幕に戻った。
結界を解き、中に入る。
「イルカ。勝ったよ」
カカシの気分も高揚していた。
口笛を吹きながら、イルカの身を起こす。
イルカは、ぎゅっとカカシに抱きついた。
「イルカ?」
その背を支えながら、イルカからの自発的な行動にカカシは驚く。
イルカは、カカシの肩に頬を当てる。
「ごめん。不安にさせちゃったんだな。ごめんな。もう、終わったから」
カカシはイルカの黒髪を梳く。
イルカの重みと体温を確かめながら、カカシは語を続ける。
「わかるよ。イルカが怖いのは、敵でも、痛いことでもない。
目の前で仲間が、担当上忍の先生が殺されたこと。
……独りになること。
大丈夫。オレがいるから。大丈夫。オレが、絶対にイルカを独りにしないから」
カカシは、旋律を紡ぐ。
物悲しい子守唄を。
イルカは、その声と腕に安らいだように、瞳を閉じた。
「嫌だ。イルカはオレのものだ。オレが連れて帰る」
戦闘が終結し、事後処理にいたってイルカの身柄を確保しにきた救護班を、カカシは拒否した。
反応を示さないイルカの身体を、抱きしめて説得役の男を睨む。
「カカシ」
男は嘆息した。
「この子は貴重な緒戦の生き残りだ。なんらかの精神的危害を加えられた可能性もある。早いうちに処置しないと不味い」
「はん。情報のために、イルカの心をいじくりまわすんだろう」
男は人の心理を知りつくした拷問のプロである。
「……このままで、いいわけがないだろう?」
「かまわないじゃないか。忘れてたいなら忘れてたって。オレがずっと面倒をみるよ」
「そうもいくまい。おまえが任務に出たらどうするんだ?」
「任務に出たって、何してたって、オレがイルカを守る! もう、恐ろしい目にも辛い目にも絶対に遭わせない!」
男は、手袋をした手をカカシの頬に当てる。
「もう、恐ろしい目にも辛い目にも遭いたくないのは、おまえのほうだろう?
カカシ」
カカシは男の手を払いのける。
「おまえがこの子に頼っているんだ。自分の心を守るために。……他人を利用して守ったものに、真実などない」
カカシは、濃紺と紅と、両の瞳を大きく見開いた。
カカシの腕の力が弱まったのを見定めて、男はイルカを抱きとった。
人形のように、何も聞かず、何も動かなかったイルカが、唐突に身をよじらせた。
カカシを求めるように、指先を伸ばす。
「イルカ!」
慌てて手を伸ばすカカシから、男はイルカを引きはなした。
「この子は、我々、木の葉医療班が責任を持って治療する」
それだけを言い残し、男はイルカを連れて去った。
その後。
カカシの歌声を聞く者はなかった。
唄を一度、聞いたら覚えてしまって、カカシが異国の複雑な発音でも鮮やかにこなして歌っていたことなど、そのうちに皆、忘れてしまった。
「先生、さよーならー」
「おう。気をつけて帰れよ」
こどもたちを送り、イルカは大きく伸びをする。
毎日は充実していた。
最初に出た戦場で、手酷い傷を受けた。戦場で役に立たなかった自分は悔しいが、今の育成という任務に否やがあるわけはない。
ただ、妙な感覚が残っている。
あまりに奇妙で、人には語ったことがないのだが。
血や、硝煙や、戦場に類するものの匂いを嗅いだとき、ふいに意味のわからない異国の言葉が、唄として蘇ってくるのだ。
学んだことも聞いたこともない異国の言葉の、唄。
そして、わけもなく胸が苦しくなる。
手を伸ばして、何かを掴みたくなる。
これは、何なんだろう?
一日の業務をおえ、オレンジ色の夕陽が傾いていくなか、イルカは校舎のかげでまた、その唄を思い出した。
戦場の匂いを嗅いだわけでもないのに。
壁に凭れて、旋律を口に出してみる。
ずっと自分の心のなかにある唄。
不思議な言葉。
Bye bye lullaby
Lilys bye
「リリスよ、私のこどもを取らないで、という意味ですよ」
静かな声が、イルカに掛けられた。
驚いて、声のほうに目を向けると、額当てと口布で顔のほとんどを隠した、長身の忍が立っていた。
「カカシ先生……。お疲れ様です」
イルカが反射的に型どおりの挨拶をすると、カカシはそこだけ覗いている右目で、にっこりと笑う。
「リリスというのは、北の最果ての、大地の女神です。ま、神ってのはたいていそういうもんらしいですが、わがままで、こどもを取って隠してしまう。だから、「リリス、バイ」で、ララバイになって、こどもをあやす子守唄になったらしいですけどね」
「へえ。ぜんぜん、知りませんでした」
イルカは、感心して目前の長身を見あげる。
「知らないで歌っていたの?」
「はい。意味はぜんぜん、わからなかったんです」
「変な話ですね」
「ええ、変な話なんですけど。……お恥ずかしい話ですが、私は戦場で物の役に立ちませんでして」
イルカは、今まで人に語ったことのない戦場の負傷を語った。
「そのときの何かかもしれないんですが」
言葉を切ったイルカを、カカシはふわりと抱きしめた。
「オレは、あれっきり歌わなかった。……とられてしまって、二度と返してもらえなかったから」
「カカシ先生?」
なんとはなく、その背中を抱きしめたイルカの脳裏で、何かが光った。
抱きしめてくれる、暖かく強い腕。
若い男の声で紡がれる、不思議な言葉の唄。
だが、今は言葉もなく。
互いを抱きしめて。
あのとき、そうしたくて出来なかったことを。
ただ、互いに抱きしめる。
七班のこどもたちは、ふと足を止めた。
「唄が聞こえない?」
サクラが耳に手を当てる。
「聞こえる。なんか、わけわかんない言葉の唄だってばよ」
ナルトが伸びあがって、声の方向を確かめようとする。
「……カカシの奴が歌ってるよ」
サスケがぼそりと言った。
「カカシ先生が?」
ナルトとサクラの声が合う。
三人のこどもたちは、しばらく佇んで、異国の旋律を聞いていた。
Bye bye lullaby
Lilys bye