イルカの初恋
血と泥にまみれて、イルカは泣くことも出来ずにいた。
身じろぎすらせず、ひたひたと身体を包む水の冷たさに耐える。
自分のミスだ。
自分が悪いのだ。
ここには、誰も自分を助けてくれる者などない。
イルカは、泣くことも出来なかったのだ。
だから、不意に聞こえてきた声は、どこか別世界からのものように響いた。
「だいじょうぶ?」
低く、頼りがいのある声。
同時に、長い腕がのびてきて、イルカを助けてくれる。
「けがは? 痛む?」
あたたかい胸にいだかれ、イルカは鼻の奥がじん、としてくるのを感じた。
「こわかった? 声も出ないかな?」
優しい声と、優しく背をたたいてくれる腕に、イルカの緊張が切れた。
うあああーん。
生命の限りをつくした声で、泣いた。
「泣かないで。もう、こわくないから」
困ったような声と、宥めるような腕の動きと、それにつれて揺れる銀の髪を感知しながら。
「その後、その助けてくれた方は、俺の汚れた服を優しく脱がせて、泥を落として、傷の手当てをしてくださって。俺は、父ちゃん、母ちゃん以外の他人に初めて肌をさらしたわけです。命の恩人ですからね。俺も身を委ねました。俺は、その方に、恋に落ちたんです。これが、俺の初恋です」
イルカは、目に星を入れて、アスマと紅に語った。
居酒屋での、酔っ払いたちのよくある光景だ。
手酌で呑んでいたカカシが、地を這うような低い声で言った。
「……オレが止めなきゃね、父は、あなたを忍犬用のシャンプーで洗ってましたよ」
「カカシさん! 人の想い出に、いきなり乱入せんでください!」
イルカが声を荒げる。
「乱入も何も、最初からいましたあ。ドブに落ちてたのを拾ったって言って、父が幼児を猫の仔の首を掴むみたいに持って帰ってきたときから」
「ドブ?」
アスマと紅の声が和す。
「せ、せめて側溝って言ってください!」
イルカが顔を赤くして、言う。
「どう言っても同じでしょ。家を出て迷子になってドブにはまってた三歳のあなたを、父が拾って帰ってきたってのは」
「そういうことかよ」
アスマが声を立てて笑う。
カカシは、ますます、ぶすくれる。
「それで、洗ってあげたのオレだし、転んでできた傷を消毒して、絆創膏を貼ってあげたのもオレだし、手を引いて、あなたのうちまで送っていってあげたのもオレです。違うでしょ。初恋の相手!」
「だって、命を救われたファーストインパクトは! どうしたって、その人に恋するでしょう!」
イルカが声を大きくする。
「すげえなあ。カカシの父ちゃんがモテるのは、おれもこの目で見てきたけど、三歳は記録更新だわ。すっげえ」
アスマは、笑いすぎて目尻に溜まった涙を指でぬぐっている。
紅は腹をおさえて、肩を震わせたまま、物も言えずにいる。
「だいたい、おませさんすぎです! 三歳で初恋はいけません! その後、いくらでもオレと過ごしたいいシーンがあるでしょう! そっちを初恋にするように!」
「そんな無茶な!」
もはや、犬も食わない状態に入ったカカシとイルカに、ますます笑いの発作におそわれながら、アスマは震える声で追加を頼んだ。
紅は、もうグラスを手に持つことを諦めて、壁を叩いて笑い、カカシとイルカは、四歳がどうの、五歳がどうの、と、いつまでも言い争っていた。