人魚

イルカにとって、四角い部屋の中が世界のすべてだった。
この世界の住人は、イルカとカカシだけ。
カカシは、イルカに物を食べさせてくれる。
イルカも持っている身体の中心の突起で、イルカの身体を貫く。
それは、痛いけれども、気持ちがいい。
部屋の中は、寒くも熱くもなく、イルカはいつも裸のままだ。
カカシとイルカが出す、白い液体、乾いたら、固くなって身体にこびりつく、それが肌を汚したら、カカシが洗ってくれる。
「イルカはね、海にいたんだよ」
暖かい湯につかってイルカを後ろから抱きながら、カカシはお話をしてくれる。
「オレが海岸を歩いてたらね、イルカが打ち上げられていたんだよ。ひどい熱を出していてね、オレは一生懸命、看病した。イルカが死んでしまうんじゃないかって心配だった。何日かして、やっと熱が下がって、でも、イルカは声も出せなくなっていて、昔のことをみいんな忘れていた」
イルカは、この部屋に来る前のことなど何も知らない。
「イルカはもう声を足にかえちゃったんだから、海にかえれないよ。だけど、ここを海より居心地よく、オレがしてあげるからね」
優しく言って、カカシはイルカにキスをする。
優しく、イルカの黒く長い髪を撫でる。

イルカは海にいる人魚だったのだと。
カカシに会うために、陸にあがってきたのだと。
そう、カカシは言う。
イルカは、何も覚えていない。何も知らない。
それなのに、いつか、海に還らなければいけないような気がする。
いつか、海の中よりももっと水のようにたゆたう、カカシの腕の中から出なければ、いけないような気がする。

海よりも優しく、たゆたう世界。

「お、イルカ、調子はどうだ?」
書類を持ってきたうみのイルカに、五代目火影綱手は案じるような声をかける。
「おかげさまで、どこにも異状はありません。ご迷惑をお掛けしました」
イルカは、九十度のお辞儀をする。
綱手は、ひらひらと手を振る。
「そう、固くなるな。三ヶ月か? 三ヶ月も意識不明だったんだからな。無理をするなよ。どこかおかしかったら、すぐに私に言え」
「はい。ありがとうございます」
イルカは、またきっちりと礼をして、火影執務室を出た。
任務で怪我をし、生死の境をさまよっていたらしい。
イルカの記憶では、任務から急に、心配そうに自分を覗きこむ綱手とカカシの顔になるのだが。
「イルカ先生」
イルカの記憶に呼応するように、銀髪の男がイルカを呼ぶ。
「カカシさん」
立ち止まり、イルカはカカシにも、きちんと礼をする。
「いやですねえ。そんなカチカチにならないでよ。身体はどうですか?」
そちらだけ覗いている右目を、笑いの形にして、カカシは綱手と同じように問う。
「はい。もう、すっかり」
「そう。良かったです」
そう言いながら、カカシの目の色は、どこか寂しそうだ。
「カカシさんが助けてくださらなかったら、どうなっていたのか。カカシさんは、命の恩人です」
イルカは、心から語を紡ぐ。
任務帰りのカカシがイルカを見つけ、里まで運んでくれて、病院に入れてくれたそうだ。
「恩に感じてくれる?」
カカシは右目を、さらに弓なりにして、イルカを見つめる。
「それはもちろん」
「じゃあ、絶対に、海に還らないでね」
低い、可聴音ぎりぎりの声で言い、カカシは口布を降ろした。
形の良い唇が、イルカのそれを奪う。
海よりも優しく、たゆたう世界に、自分はまだいるんだな、とイルカは思った。

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