その甘み
イルカが彼女と、さよならをした。
カカシは、不本意な役回りを、ふられてしまった。
 
偶然を装って、すれ違う街角で。
さも、自分もその店を気に入っているに過ぎない、という風情で、顔を合わせる喫茶店で。
どうして異性というのは、異性を気にせずにいられないのだろう。
よく会う男を。
彼女のほうが、意識するようになって。
視線を、自分に向けられている、と勘違いして。
彼女は、カカシを振り返るようになり。
秋波を送る、というのは、ああいうのを言うだろう、とカカシは体感した。
だが、さすがに、イルカ先生を女にしたような、と形容される女性だけあって、普通の女性よりも、きっぱりとしていた。
カカシを得る前に、彼女は、イルカに別れを告げたのだそうだ。
はっきりと、カカシを好きになった、と宣して。
それから、カカシは、彼女から好意の言葉を受けた。
あなたに興味は無いのだ、と返す以外に、何ができたというのだろう。
イルカの恋人だというのなら、ともかく。
イルカと別れた、彼女自身の何に関心を持て、と?
そして、イルカとカカシと彼女は、それぞれ一人と一人と一人になったのだった。
 
その喫茶店に足を運ぶのは、カカシの、休日の習慣になっていた。
もう、イルカの輝くような笑顔を見ることは、ないが。
コーヒーの苦みに顔をしかめながら。
カカシは考える。
自分が絡んでさえいなければ、好機でもあったのに。
好きになってほしい、などと大それた思いは抱かない。
失意のイルカを慰めて、少し側に寄ることが、できたかもしれない。
それが、できたら、なんという幸福だっただろう。
叶わない願いに、嘆息する。
扉が開いて、なんとなく視線をやったカカシは、入ってきた人物に驚く。
イルカだった。
まさか、彼が来るとは思わなかった。
イルカも、カカシを見て、瞬間、びっくりしたようだったが、すぐに、その表情は消えた。
カカシに一礼し、さくさくと歩を進めてくる。
「ここ、いいですか?」
向かい側の席を示され、カカシは、無言で、こくこくと頷く。
言葉が出なかったのだ。
「カカシさん、ほんとうに、ここのコ―ヒ―が好きなんですね」
イルカは、穏やかに微笑んでいる。
「ええ、まあ」
カカシは、うまく返答できない。
「おれも、ここのコ―ヒ―、好きなんですよ」
イルカの笑顔にひきこまれるように、カカシの口もほころぶ。
苦い思い出があっても、飲みたくなるほど、イルカにとっては、魅力がある味なのだろう。
カカシには、苦いだけの代物でしかないが。
「カカシさんの、せいではないですから」
唐突に言を発せられ、カカシは仰天する。
イルカの、優しい笑みは消えない。
「彼女も、そう言ってますから」
「あの、ごめんなさい。オレ……」
他に言うことが、カカシには思い浮かべられない。
「ですから。カカシさんに、謝ってもらうようなことは、何もないんです」
運ばれてきたコ―ヒ―を、イルカは、ゆっくりとひとくち、飲む。
「いつか、こうなったとは思うんです。おれと彼女は似すぎている、いえ、同じでありすぎたから。……すみません、人に聞かせるようなことじゃ、ないですね」
イルカは、頬を紅潮させて、鼻の頭の傷を掻く。
「よかったら、話してください。オレにも、聞くことは、できますから」
こいねがった、イルカが自分にだけ、語りかけてくれる、声。
イルカは、言葉を選びながら、語を紡ぐ。
「出会ったときから、おれたちは、分かり合え過ぎました。なくした半身、というのがあるのなら、そうとしか思えないほどに」
黒い液体で、イルカは喉を潤す。
「最初は、そのことに有頂天でした。けれど、完全な自分になったら、もう、動くことはできなくなる。世界が必要でなくなるんです。そのことに気付きだした頃、あなたの存在を知った」
イルカの黒い瞳が、まっすぐにカカシをとらえる。
「違いすぎる、異質な存在。いつのまにか、おれたちは、あなたに魅かれていた」
「……おれ、たち?」
カカシは、その語を、ぼんやりと繰り返す。
「彼女とおれ、です。彼女が、あなたに魅かれたと同じだけ、同じ時に、おれはあなたに魅かれた。彼女が、あなたを好きになって、おれが好きにならないはずはないんです。おれと彼女は、それくらい、同じものだったから」
カカシは、瞳を大きく見開く。
「そして、悟りました。おれと彼女は、一緒にいるべきではない、と。世界のどこかで引きあいながら、それぞれに生きていかなければならないのだ、と。愛するのは別の人なのだ、と」
カカシの頭は、忙しく回転した。
これは、これは、ひょっとして。
イルカは、カップをソ―サ―に置いた。
かちゃり、と微かな音がした。
「だから、カカシさんのせいでは、ないんです。すみません。お心を煩わすことはないと言いたくて、余計なことまで言いました。忘れてください」
「忘れません!」
さっくりと席を立とうとしたイルカの手を、カカシは掴んだ。
「オレも、言わなければいけないことが、あるんです。オレ、コ―ヒ―が好きで、この店に来てたんじゃないんです。実は」
言いたいことが、言わなければならないことが、たくさん、ある。
何よりも、この手を離しては、いけない。
カカシの舌には、コ―ヒ―の苦みが残っていた。
それが、ひどく甘いものに、変化していった。
 
 
 
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