な泣きそ
はたけカカシは、ひどく混乱していた。
奪われた情報を奪還し、関わった者を粛清するという、彼にとっては慣れた任務であった。頭部に挫傷を負ったが、それくらい、たいしたことではない。術と薬草で、簡単に治る程度のものだ。
それなのに。
なんなのだろう。記憶がはっきりしない。
ただ、本能に導かれるようにして、その家の前に立ち、戸を叩いた。
戸が開かれ、黒髪を肩に垂らした、黒い瞳の若い男が出てきた。
カカシを認めて、にっこり笑う。
「お帰りなさい。ご無事で何よりです」
カカシは、ほっとして言った。
「ああ、良かった。あなたはオレを知っているんですね」
彼の黒い瞳が、大きく見開かれる。
カカシは、もどかしく語を紡ぐ。
「どうもね、記憶があやふやなんです。術と、傷のせいだと思うんですが……」
そこまで言って、カカシは、眩暈を感じた。
彼が、支えてくれたのがわかった。
彼は、そのままカカシを家に置いてくれ、あれこれと面倒をみてくれた。
カカシは訊ねた。
「あなたは優しいですね。オレとあなたは、どういう関係なんですか?」
彼は、困ったような顔をした。
しばらく考えてから、ゆっくりと言う。
「俺は、アカデミーで教えてるんですが、その卒業生を、アナタが担当していて、それで、個人的にも付き合いができて、ええと、アナタは、よく、俺のところに、こうやって転がりこんできていて……」
カカシは首を傾げた。
「なんだか、よくわからない関係ですね」
「確かに」
彼が笑った。
つられて、カカシも笑う。
「でも、オレがあなたを好きだってことは、間違いないだろうな」
するり、とそんな言葉が口から出た。
腕をのばして、彼の身を抱く。
彼は驚いて、その胸を押しかえした。
カカシは、不思議に思う。
「いつも、こんなふうに、してたんじゃないんですか?」
「しませんよ、こんなこと」
「じゃあ、オレが、したいと思っていただけなんだ」
カカシは、悲しくなった。
「オレ、片想いをしてたんだ」
彼は、黒い瞳を、丸く見開いた。
「そんな。俺たちは、そんなのではないですよ。記憶の混乱のせいですよ」
「そうでしょうか?」
不安で、カカシはイルカの顔を下から、掬いあげるように見る。
「そうですよ」
彼は、頷く。
「あなたがそう言うんなら、そうなんでしょう」
カカシは、軽く首を傾げて、そう言った。
アナタガソウイウンナラ、ソウナンデショウ。
その言葉は、カカシの口から最も多く出る言葉になった。
傷さえ癒えれば、自然と記憶の混乱も落ち着いてくるだろうと思われていたのに、外側は回復していっても、中身のほうは戻ってこなかった。
三代目火影と呼ばれる老人は、苦渋に満ちた表情をした。
「人忘れの術をやられたの」
「人忘れ?」
「むろん、禁じ手じゃ。人の心を破壊し、人であることを忘れさせてしまう」
彼は顔色を失った。火影は、淡々と付けたす。
「すべてを忘れていき、やがては言の葉も、己が人であることも忘れてしまう」
「そんな! 術を解くには、どうすればいいんですか!」
「無理でしょうね。術者も、オレが殺してしまったんでしょうし」
他人事のように火影の言を聞いていたカカシが、やはり他人事のように言った。
なんとか方法をさがそう、と火影は約して辞した。
彼は、ただただカカシを見ている。
「たぶんね、オレ、その術にかかりやすかったんじゃないかなあ。はっきりした自分、というものが、元々薄いような気がするんです」
ベッドに座り、カカシは言う。
向き合う形で、床に正座した彼は、両の拳を膝に当てていた。
「アナタは、素晴らしい忍者です。それに、こどもたちも立派に導く先生です。そんな、自分がないなんて……」
「うーん、ないから、がんばって自分を作ろうとしたんだと思います。たとえば親のこととかね、どうやっても、何も思い出せないんです。……その人が死んでしまって、すごく悲しかったという人はいるみたいなんですけど」
カカシは、眉根を寄せて、記憶を辿ろうとする。だが、とうとうその糸口を掴めず、首を振った。諦めた。
「だから、あなたが悲しまないでください。失って、惜しいようなものじゃないですから。オレの過去」
カカシは、前かがみになって、彼の顔を下から見る。
黒髪を天辺あたりで結わえて、鼻の上のほうに一文字の傷がある。一見、厳しく見える顔立ちだが、笑うと、凄く優しくて可愛い。
だが、今は、彼は睨むようにカカシを見る。
「そんな、失って惜しいようなもののはず、ありません! 何か、きっと何か方法があるはずです」
彼は、唇を強く噛んでいる。目に、涙が潤んでいる。
カカシは腕をのばして、彼を抱いた。
「泣かないで。オレは平気だから」
彼は、一瞬、身を強張らせたあと、カカシの胸に顔を押しつけ、慟哭した。
カカシは、ぎこちない手つきで、彼の背を撫でる。
「泣かないで。ねえ、泣かないでよ。オレ、ほんとうにいらないんだ。あなたが好きなことだけ、覚えてられればいい」
しゃっくりを引きずりながら、彼は、カカシの顔を見る。
カカシは、少し困っていた。
「このままいけば、オレは、何もかも忘れてしまうでしょう。あなたのことまで、忘れてしまうかもしれない。きっと忘れるでしょう。でもね、あなたを好きだったってことだけは、忘れないと思うんです」
もし、すべてを忘れてしまうとしても、自分自身も、あなたまで忘れてしまうとしても、 あなたを好きだったことだけは、忘れないでしょう。
人であったことさえ、忘れてしまうとしても、あなたを好きだったことだけは。
カカシはそう言って笑った。幸せだった。
そんなふうに人を好きになれたから、あとは全部、時の彼方に捨ててしまってもかまわない。
「わかりました」
彼は、もう泣かなかった。
「じゃあ、俺が全部を覚えておきます。それと、もうひとつだけ、忘れないでください。俺がアナタを好きだってことを」
彼は唇を、カカシのそれに合わせた。
触れるだけの口付けのあと、彼が言った。囁くような声で。
「アナタをください。俺が忘れないために必要なんです」
行為そのものは、カカシの身体が覚えていた。
だが、彼の身体は、初めて見る、初めて触れるものだった。
忘れたのではない。
自分は、この身体と行為に焦がれていた。きっと。
触れたくて触れたくて、でも、嫌われたくなくて、耐えていた。たぶん。
名前を呼びたい。この人の名前を。
名前を呼んでほしい。オレの名前を。
好きでたまらない。
苦痛と快楽が、混じりあってできる表情。
しっとりと包んでくれる身体。
忘れたくない。この人過ごした時間を。
忘れたくない。この人が好きだと言ってくれる自分自身を。
忘れたくない。この人を。
名前を呼びたい!
「イルカ……。イルカせんせい?」
イルカは、はっと目を開けた。
「……イルカ。ねえ、オレの名前を呼んで」
カカシは、イルカの顔にふりかかる黒髪を、優しく振りはらう。
「…カ、カカシ先生」
かすれた声に、カカシは、くすりと笑う。
「こんなときにまで、先生を付けなくてもいいでしょ? カカシって呼んで」
「……カカシ…さん」
「ん、それで良しとしときますか」
カカシは、イルカに接吻し、再び、肌に指を走らせた。
他のことはいらない。
イルカだけ思い出して、イルカだけ忘れなければ。
カカシが、そう言うと、厳しいイルカ先生は、それだけじゃ駄目です、と言った。
そして、様々なことをカカシに詰めこもうとする。
この人は、なまじの術者より、術を解く力が強いかもしれない、とカカシは思った。
二人の時間が、ゆっくりと流れていく。
あなたを好きだったことだけは忘れない。