な忘れそ
カカシが単独任務に赴き、アカデミーや火影への報告より前に、イルカの家に現れるということは、これまでにも何度もあった。
だから、深夜にいきなり扉を叩かれ、開けてみるとカカシが立っているという状況にも、あまり驚きはしなかった。
「お帰りなさい。ご無事で何よりです」
心から、イルカは言う。
カカシは、ほっとしたように言った。
「ああ、良かった。あなたはオレを知っているんですね」
イルカの黒い瞳が、大きく見開かれる。
銀髪で、濃紺の右目だけを外気にさらした男は、困ったように語を紡ぐ。
「どうもね、記憶があやふやなんです。術と、傷のせいだと思うんですが……」
そこまで言って、カカシは、顔をしかめる。
ぐらり、と倒れかかってくるのを、イルかは、慌てて抱きとめた。
カカシの頭部に裂傷があり、そこから、血の匂いがした。
カカシの任務は火影の勅命による極秘任務が多く、記憶が混乱しているという今、医者にみせるわけにもいかなかった。
三代目火影にだけ報告し、カカシを自宅に留めおいて、イルカが傷の手当てをした。
「あなたは優しいですね。オレとあなたは、どういう関係なんですか?」
傷をみ、日常の世話をするイルカに、カカシは問う。
イルカは、回答にひどく困った。
教官としての同僚。同僚と言うには、中忍と上忍という差がある。
友達。しっくりくる言葉ではない。
恋人同士。まさか、そんなものではない。
イルカは、言葉を選びながら、考え考え言った。
「俺は、アカデミーで教えてるんですが、その卒業生を、アナタが担当していて、それで、個人的にも付き合いができて、ええと、アナタは、よく、俺のところに、こうやって転がりこんできていて……」
カカシは首を傾げた。このこどものような仕草は、カカシの癖だ。
「なんだか、よくわからない関係ですね」
「確かに」
イルカは笑う。
つられたように、カカシも笑った。
「でも、オレがあなたを好きだってことは、間違いないだろうな」
カカシは、腕をのばして、イルカの身を抱く。
イルカは驚いて、その胸を押す。
カカシは、濃紺の瞳に、不思議そうな色を浮かべた。
「いつも、こんなふうに、してたんじゃないんですか?」
「しませんよ、こんなこと」
「じゃあ、オレが、したいと思っていただけなんだ」
目の色は、そのまま悲しくなる。
「オレ、片想いをしてたんだ」
イルカは、黒い瞳を、丸く見開いた。
「そんな。俺たちは、そんなのではないですよ。記憶の混乱のせいですよ」
「そうでしょうか?」
不安そうに、カカシはイルカの顔を下から、掬いあげるように見る。
「そうですよ」
イルカは、頷く。
「あなたがそう言うんなら、そうなんでしょう」
カカシは、軽く首を傾げて、そう言った。
アナタガソウイウンナラ、ソウナンデショウ。
その言葉は、カカシの口から最も多く出る言葉になった。
傷さえ癒えれば、自然と記憶の混乱も落ち着いてくるだろうと思われていたのに、外側は回復していっても、中身のほうは戻ってこなかった。
三代目火影は、苦渋に満ちた表情をした。
「人忘れの術をやられたの」
「人忘れ?」
「むろん、禁じ手じゃ。人の心を破壊し、人であることを忘れさせてしまう」
イルカは顔色を失った。火影は、淡々と付けたす。
「すべてを忘れていき、やがては言の葉も、己が人であることも忘れてしまう」
「そんな! 術を解くには、どうすればいいんですか!」
「無理でしょうね。術者も、オレが殺してしまったんでしょうし」
他人事のように火影の言を聞いていたカカシが、やはり他人事のように言った。
なんとか方法をさがそう、と火影は約して辞した。
だが、イルカの衝撃は、おさまるものではない。
「たぶんね、オレ、その術にかかりやすかったんじゃないかなあ。はっきりした自分、というものが、元々薄いような気がするんです」
ベッドに座り、カカシは言う。
向き合う形で、床に正座したイルカは、両の拳を膝に当てる。
「アナタは、素晴らしい忍者です。それに、こどもたちも立派に導く先生です。そんな、自分がないなんて……」
「うーん、ないから、がんばって自分を作ろうとしたんだと思います。たとえば親のこととかね、どうやっても、何も思い出せないんです。……その人が死んでしまって、すごく悲しかったという人はいるみたいなんですけど」
カカシは、眉根を寄せて、記憶を辿ろうとする。だが、とうとうその糸口を掴めなかったのか、首を振った。諦めたようである。
「だから、あなたが悲しまないでください。失って、惜しいようなものじゃないですから。オレの過去」
カカシは、前かがみになって、イルカの顔を下から見る。
銀髪に縁取られ、口布も額当てもしていないその顔は、見惚れてしまうくらい端麗だ。
だが、今は、イルカはその顔を睨むように見返した。
「そんな、失って惜しいようなもののはず、ありません! 何か、きっと何か方法があるはずです!」
言うと、何か胸の奥から、熱い固まりが押しだしてくるようだった。
唇を強く噛んで、その激情に耐える。
カカシが腕を伸ばして、イルカを抱いた。
「泣かないで。オレは平気だから」
その言葉で、イルカは、自分が涙を流していたことを知った。
知ってしまうと、止まらなかった。
カカシの胸に顔を押しつけ、押し寄せる波のままに、慟哭する。
カカシは、ぎこちない手つきで、イルカの背を宥めるように撫でる。
「泣かないで。ねえ、泣かないでよ。オレ、ほんとうにいらないんだ。あなたが好きなことだけ、覚えてられればいい」
しゃっくりを引きずりながら、イルカは、カカシの顔を見る。
カカシは、少し困ったような顔をしていた。
「このままいけば、オレは、何もかも忘れてしまうでしょう。あなたのことまで、忘れてしまうかもしれない。きっと忘れるでしょう。でもね、あなたを好きだったってことだけは、忘れないと思うんです」
もし、すべてを忘れてしまうとしても、自分自身も、あなたまで忘れてしまうとしても、あなたを好きだったことだけは、忘れないでしょう。
人であったことさえ、忘れてしまうとしても、あなたを好きだったことだけは。
カカシはそう言って、幸せそうに笑った。
そんなふうに人を好きになれたから、あとは全部、時の彼方に捨ててしまってもかまわない、と。
「わかりました」
イルカは、もう泣かなかった。
「じゃあ、俺が全部を覚えておきます。それと、もうひとつだけ、忘れないでください。俺がアナタを好きだってことを」
イルカは唇を、カカシのそれに合わせた。
朝が来るたび、暦とは違う時間がイルカとカカシの間に流れだす。
カカシは、順々に忘れていくというのではなくて、その日によって状態が違った。
日常生活に全く支障がないような日もあったし、空になった身がそこにあるだけ、という日もあった。
どんな日も、イルカは同じように笑って、カカシに話しかけ、時間を過ごした。
イルカが悲しむと、カカシも悲しむから。もう、悲しむことなど出来ないのに、悲しむから。
表面が削ぎとられていくにつけ、カカシの本質が、とても優しいものだったのだとイルカは知った。
自分の痛みより、イルカの痛みに敏感で。
イルカが笑うと、カカシも笑う。
時折、脈絡もなく語られる記憶の断片は、大切にイルカが心のなかにしまっておいた。
嬉しかったこと。悲しかったこと。
手の間から砂が零れおちていくようなこの日々のなかでも、それを積み重ねていこう。
いつか、記憶だけはなく、この世に残された身さえ、時は奪ってゆくだろう。
それでも、好きだったということだけは、永遠だ。
ある空の高い日。
イルカは、カカシの手を引いて、外に出た。
秋晴れの、雲ひとつない日だった。
森では、色づいた木の葉が舞っている。
大木の下に、二人は座った。
カカシは、降ってくる落ち葉を掌にのせて、面白がっているようだった。
「落ち葉を集めて、焚き火をしましょうか? 栗や芋を焼くと美味しいですね。木の実を拾っていきましょうか? 銀杏を入れた茶碗蒸、お好きでしたよね」
いつものように、次々と語を継ぐイルカの肩に、カカシは頭をのせて瞳を閉じた。
「眠いんですか?」
イルカは微笑し、腕を回してカカシの身を引きよせる。
体温が心地よかった。銀色の髪を梳く。
金や赤の葉が、はらはらと舞う。
世界が終わったような静寂。
イルカは、身じろぎもせずに、カカシの身を抱きしめつづけた。
あなたを好きだったことだけは忘れない。