アカデミ―の廊下で、イルカはアスマに呼びとめられた。
呼びとめておきながら、アスマは、言を出せずにいる。
どうしても言わなければ、いけないのだけれど、とても言いにくいことなのだろう、とイルカは察した。
「なんですか。アスマ兄さん」
にっこり笑って、促す。
木の葉丸が、ナルトの兄ちゃん、と慕っているように、幼い頃のイルカは、アスマを慕っていた。
言外には、何を言われても、ちゃんと受けとめますよ、兄と慕ってきた年月にかけて、という想いをこめてみる。
それを汲みとったのだろう、アスマは、重い口を開く。
「その、な。最近、オマエが、やけに色っぽいてのか、艶っぽいてのか、惑う奴も出てきて、な」
いくら受けとめる心の準備をしていたと言っても、あまりに予想外の言葉に、イルカは、口をぽかんと開けた。
物堅いとか、無骨だとか。男らしいじゃなくて男くさいだとか。
いい人でもてない典型とか。
それが、うみのイルカを評する言葉だったはずだが。
「誰もかれもって、わけじゃねえが、ほら、こういう世界だ、ややこしい女も、男もいるからよ。気をつけろって、な」
アスマは、どうにもこうにも、言いにくそうだ。
なんのことだろう、と首を傾げていたイルカは、不意に悟った。
カカシの香が移っているのなら、有り得る。
上忍のはたけカカシとイルカは、情人関係にあった。
彼の匂いたつような色香が、ほんの少しでも自分に移っているなら。
それは、さぞかし傍迷惑であろう。
イルカは、アスマに、きっちりと頭を下げた。
「ご忠告、ありがとうございます。気をつけます。具体的な方法は、よく、わかりませんが」
「ああ、そうしてくれ。俺も、具体的な方法てやつあ、わかんねえが」
髭の上忍は、ほっとしたように、息を吐いた。
イルカがカカシと、情を交わすようになったきっかけは、あまり浪漫的なものではなかった。
ある月夜、任務帰りの高揚した精神にのっとって、イルカはさくさくと歩を進めていた。
その足裏で、何か柔らかいものが、むぎゅっ、とした感触を訴えた。
「なんだ、これ」
確かめるようにぎゅうぎゅう踏むイルカの足の下で、のったりと
声がした。
「あ〜、できれば、足をどけてもらえませんかね〜」
その声の主を認識するなり、イルカは、足をどけるどころか、平伏した。
「す、すみません! カカシさん! 上忍の方を足蹴にするなんて! 俺は中忍の風上にも置けません。かくなるうえは、この腹をかっさばいてお詫びを!」
「かっさばなくていいから、助けてください〜。写輪眼の使いすぎで、チャクラ切れなんです〜」
「おお。これが噂の! 写輪眼に合う身体じゃないんで、すぐバテちゃうという!」
「……ま、その通りなんですけど」
「御身失礼」
言うなり、イルカはカカシを背中に背負った。
そのまま、夜を駆け。
ようとして、急に立ち止まった。
「で、どこに行けば、宜しいので?」
イルカの背に鼻の頭をぶつけたカカシは、いくぶん鼻声になって、自室の場所を告げた。
改めて部屋まで運び、乗りかかった舟とばかりに、世話を焼いた。
軽くはあったが、カカシは怪我までしていたので、甲斐甲斐しいばかりに世話を焼いた。
カカシは恐縮しきっていたが、遠慮する体力もなかったようで、ありがたくイルカの世話になった。
それまでイルカは、ナルトの上官、という以上に、カカシのことを意識してはいなかった。
それは、格好いいひとだ、木の葉の里が誇る忍者だ、と知ってはいたが。
裸の上半身を寝台に起こし、だるそうに、窓の外を見遣っている男は、今まで、イルカが知っていたカカシとは、別のものだった。
顔立ちや、体型の美しさから、くるものばかりではない。
それも、もちろん、美貌と称するに相応しいものであることを、再認識したが。
纏う空気。
銀髪の男から発せられるもの。
視線に気付いたのか、訝しそうに、斜め下の角度から、イルカの顔を、掬いあげるように見る、濃紺の瞳。
同性相手に、フェロモン、出してんじゃねえ!
病人じゃなかったら、叫んで、火影岩まで走り去りたいところだ。
「どうしたんです? 顔が赤いですよ」
カカシが、イルカの額に掌を当てた。
ますます、顔に熱が集まるのが、わかる。
「風邪かな?」
「そ、そ、そ、そうです! きっと、そう! 抵抗力が弱っているカカシさんに、伝染したら大変ですから。おれ、水垢離をとってきます!」
「はあ? そんなことしたら、なおのこと、悪くなるんじゃ」
のんびりしたカカシの声を後にし、井戸はないので、浴室で冷水シャワーを浴びた。
いくら綺麗で色っぽくても、男、男、男。
煩悩滅却、怨霊退散。
少し、いや、かなり違う。
一度、意識してしまったのが敗因だった。
イルカは、何度も何度も、水垢離をとる羽目になった。
自家製の御題目を唱えながら。
そうこうしているうちに、カカシは回復した。
「申し訳なかったですねえ。ほんとうに、お世話になっちゃって」
上忍に頭を下げられ、イルカは、ぶんぶんと手を横に振る。
「そんな、謝らないでくださいよ。当然のことです」
「じゃあ、礼を言わせてください。有り難うございます。助かりました」
普通に服を着て、口布まで復帰させて、カカシは笑う。
それは、イルカが知っているとおりの、ナルトの上官だった。
美形だろうなあ、背も高いし。
とは思わせるものの、呑気で、やる気がなさそうで、年齢以上におっさんくさくさえある男だ。
あの色気はなんだったのだろう、とイルカは、狐に化かされたような気持ちになる。
その後、カカシは、御礼だといって、ハムやバターや海苔の詰め合わせを、イルカのところに、持ってきた。
いや、昭和の時代の御中元、御歳暮じゃないから。
と、固辞しても、置いていくので、イルカは、それを使った料理を返した。
そのうちに、互いの家で、適当に寛ぐような間柄になって、気が付いたら、イルカはカカシに口説かれていた。
だらだらしているときに、口説かれてしまって、イルカは抗えなかった。
カカシは、任務や公のとき、気合を入れているときには、その美貌や、色気が外に出ないらしい。
女性が、綺麗な服を着て、綺麗に化粧をして、香水なぞを振って、そういうものを出すのとは逆に、カカシは気合をいれて、隠しこんでしまうらしい。
「先生に、顔を隠して、しゃんとしろって、厳しく躾られたんで〜」
自分の美貌やフェロモンの効果など、まったくわかっていなさそうなカカシに、問いつめたところ、そんな答が返ってきた。
未だに無意識らしい。
四代目の指導は正しかった、とイルカは思う。
出しっぱなしの、こんなのが、戦場やらにいたんじゃ、士気が乱れるでは、すまないだろう。
それを無防備にさらされて、自分が食われてしまって言うのもなんだが。
まずい、非常に、まずい。
イルカは焦った。
あの、カカシの香を移されて、歩いていたなど、大変なことだ。
アスマの言うのも、もっともだ。
いやもう、ほんとうに、よく言ってくれた。
気をつけなければ。
そうだ、カカシを見習って、気配を変えるようにしなければ。
そのうち、自分も、無意識のうちに、出来るようになるだろう。
イルカ先生、この頃、いつも怒ってて、こわい―。
生徒が泣いても、しばらくは、このまま。
匂いたたなくなるまで!
上忍控え室で、アスマが煙草を吹かしていると、のったりとカカシがやってきた。
「アスマ〜。ありがと―」
「んあ? てめえに礼を言われるような筋合いは、ねえが」
「イルカ先生に言ってくれたでしょ」
アスマの向かいに座り、カカシは、口布を降ろして、にっこりと笑う。
いいかげん子供の頃から見慣れていて、本性を知りつくしているアスマでも、一瞬、目を奪われてしまう。
「オレもね〜、ひやひやしてたんだよ〜。イルカ先生、急に、色っぽくなって、綺麗になって。で、本人、全然、意識してないんだからね〜。一種、凶器だよね」
「……他の誰に言われても、てめえにだけは言われたかねえ、と思うぞ。イルカも」
アスマの声が、微妙に凄んでしまうのは、カカシと過ごしてきた年月が、走馬灯のように駆けめぐってしまったからだ。
「そうなんだよねえ。オレが、いくらイルカ先生は綺麗で可愛いから、そう言っても、口説き文句にしかならなくて。いやあ、アスマが言ってくれて助かったよ。イルカ先生も、物凄い気合で、気をつけてるし。ほんと、ありがとね〜」
どうやら、カカシは本気で言っているらしい。
わけもなく人生を辞めたくなるのは、こんなときかもな。
と、アスマは思った。
その人生の凶器は、人の気も知らないで、匂いたつような、華やかで艶やかな笑みをアスマに見せた。