隠れの里の、隠しの湯
 
 忍の里には、たいてい隠し湯がある。
 木の葉の里も例外ではなく、山の奥に、温泉が湧いていた。
 だが、そこは、物見遊山で訪れるような所ではない。
 傷ついた身体を癒すために、浸かるのである。
 晩秋の、夜というよりは朝に近い時刻、うみのイルカは、湯に向かった。
 不意に背中の傷痕が疼きだしたからである。医者にかかるほどではないが、身体を楽にしたかったので、温泉に来た。
 その場所は、口伝えに伝えられているだけで、もちろん、案内板などが出ているはずもない。ただ温泉が湧いているだけで、脱衣所や洗い場があるわけでもない。人が来ないときには、猿や鹿が浸かっている。今は、そんな先客もなかった。
 イルカは、着ていた物を近くの木の枝にかけ、湯に入る。
 ナルトを庇ってできた背の傷痕に、ゆっくりと湯がしみこんでいく。
 空には星と月が輝き、それが水面に映って、えも言われず美しい。
 イルカは、星を掬ってみた。
「あれ〜、こんな時間に人がいたのね」
 のったりとした声に、静寂が破られる。
 イルカが声のほうを見やると、上忍のはたけカカシが立っていた。
「あ、カカシ先生。お邪魔でしたら、すぐ消えます」
 イルカは、慌てて湯の中に立つ。
 カカシは、ひらひらと手を振った。
「そんな気にしなくていいですよ。男同士なんだし。オレやアンタの二人くらい、ゆうゆうと入れるでしょ」
 確かに、広さは充分である。
 カカシは、すばやく装束を脱ぎ、額当てや口布もとって、湯に入ってきた。
 イルカがカカシの素顔を見るのは、初めてだった。
 夜明け前の、いちばん暗い時刻、はっきりと見えないのは惜しい。
 だが、遠目に月明かりで見える範囲でも、かなり整っているのがわかる。
 カカシは、ゆっくりと湯に入ってくると、すぐに、頭まで潜ってしまった。
 変わった浸かり方をする人だなあ、とイルカは思った。
 しばらく経って、入った場所とは反対側、つまり、イルカの側に顔を出す。
「あ、イルカ先生、オレのこと、ヘンな奴だと思ったでしょ」
「いえ、別に……」
 その通りです、とは言えない。心で思っていても。
「オレね、ずっとここで、すいとんの術の練習をしたんで、つい癖で、潜ってしまうんですよねえ」
 そんな初歩の術、忍者学校で習うような術を練習する頃に、この湯に入れるはずがない。ここは、実戦で負った傷を癒す場所なのだから、とイルカは言おうとして、途中で気がついた。6歳で中忍になった男である。実戦のほうが先にきて、練習が後になったとしても、カカシなら、おかしくはない。
「四代目に、叱られた、叱られた。あったかい湯で練習になるか、ずるをするなって、冬の川に蹴りおとされたんですよ。あの人、口は悪いし、口より手、手より足が早い人だったからなあ」
 湯で、身体ばかりか、気分もほぐれているのか、カカシは、問わず語りをする。
 四代目火影。若くして、英雄となった長。イルカの両親も、その同じ日に英雄になった。
 なんとなく、イルカもカカシも、それぞれの思いに沈むようにして、無言で湯に浸かっている。
 朝日がのぼってきて、新しい朝の始まりを告げる。
 陽の光を浴びて、山の紅葉が輝く。
 イルカは、思わずため息をついて、この気持ちを共有しようと、カカシに言葉をかけようとして、声を失ってしまった。
 太陽の下にさらされる、カカシの素顔。怜悧なほどに整った顔立ちを、先刻の所業のせいで、濡れて落ちてきた銀髪が縁取る。すべての髪が降りてしまったせいか、ひどく若々しく、少年めいた印象さえある。
 カカシはカカシで、驚いたように、濃紺の右目と赤い左目を見開いて、イルカを見つめている。
 先に、口火を切ったのは、カカシだった。
「イルカ先生って、髪を降ろしてると、若いんですね」
 それは、こっちの科白だ、と、イルカが言い返す前に、カカシがさらに語を継ぐ。
「それに、きっれいな顔、してんですねえ。今まで、わかんなかった」
 だから、それは、こっちの科白だ、と、またもやイルカが言い返す前に、カカシが行動を起こした。
 くいっと長い指をのばし、カカシは、イルカの顎を持ちあげる。
 ごく自然な接吻。これまで、何度となく交わしてきたと錯覚してしまいそうな。
「唾つけたっと」
 弾むように言うと、カカシは、立ちあがった。
 カカシの身体は、滑らかな筋肉に覆われ、手足は、絶妙のバランスを保っている。
 今、起きたことに混乱を起こしていながら、イルカの目は、それをきちんと確認してしまう。
 カカシは、手を、イルカに差しだした。
 イルカは躊躇する。
「そろそろ出ないと、今日の任務に間に合いませんよ」
 カカシが、言う。
 イルカは、おそるおそる、その手を取った。
 強い力で、引きあげられる。
 カカシは、にっこりと笑って言った。
「覚悟してくださいね。オレは、もうこの手を離しませんからね」
 紅葉が一枚、ひらひらと、湯の表面に舞ってきた。
 
 
 そのとき、実は、カカシは、本来なら木の葉病院に担ぎこまれるような、ひどい手傷を負っていたのだと、イルカが知ったのは、ずいぶん後になってからのことである。
「なぜ、さっさと病院に行かなかったんです?」
 イルカは、責めるような口調で言った。万が一のことになっていたら、と思っただけで、ぞっとする。
「だって、傷を治すには、まず、あの湯だと思ったし。おかげで、あなたと、こうなれたんだから、いいじゃないですか」
 カカシは、イルカの裸の腰に手を回してくる。
 その手をイルカは、はたき落とす。
 それでも懲りずに、カカシは再度、挑戦する。
 諦めたイルカの唇に、自分のそれを落としてから、にこっと笑って、カカシは言った。
「こういうのを、怪我の功名っていうんじゃないですかね」
 
 
 
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