利用
 
 カカシの前で、芝居の型のようにぴたりと決まった土下座を、イルカはした。
「申しわけありません! カカシさん、別れてください!」
 カカシとイルカの間には、離縁届がある。
 婚姻に限らず、戸籍で関わりにあるものの縁を切ることを、火影に届ける書類である。
「どうか、署名と印を!」
 頭を上げず、言い募るイルカに、カカシはのったりとした声を出した。
「イルカ先生、落ち着きましょう。これには署名できません」
 イルカは、はっとしたように顔を上げる。
「というか、署名も印も無駄です。オレたちは、婚姻はもちろん、養子縁組も何もしてないでしょ? 結ばれていない縁を切ることはできません」
 驚きに満ちたような表情のあと、イルカは頬を真っ赤に染めた。
「す、すみません。おれ、動転していて」
「どこかの女に子供でも出来たの? で、その女にこの用紙を持たされたの?」
「そんなことはありません! 断じて!」
 イルカの頬の赤さは、先刻とは違う理由によるものになる。
「じゃあ、どうしたの? 理由を聞きましょうか」
 イルカは俯き、言葉を発することをためらっている。
「今朝まで、まったく、そんな素振りもなかったじゃない。オレが意識不明の間に、誰かとどうかなった、というんなら、理屈も通るけど」
「そんなんじゃありません!」
 イルカはまた、声を荒げる。
「おれは、おれの醜さに気付いたんです」
 また俯いて、イルカは言う。
「三代目が亡くなったあと、とにかく忙しくて、おれもいろんな任務をやって、病み上がりのカカシさんにまで、すぐに任務を……。振り分けたの、おれです。おれとカカシさんの仲なら、わかってくれるだろう、と思っていて……」
 泣きそうな顔で、イルカは言う。
「おれは、カカシさんに甘えて、利用していたんです。自分の恋人を。だから、だから、こんな人間がこのまま付き合っていけるはずは、ありません!」
 カカシは、長い指を伸ばして、離縁届をゆっくりと引き裂いた。
「まず、これは必要ないものだから、こうしていいですよね」
 紙屑になったものを、カカシはゴミ箱に捨てる。
 そして、また、イルカの前に座って、じっと顔を見つめる。
「オレは、あなたと別れません」
 きっぱりと、カカシは宣言する。
「あなたがオレを嫌いになって、他に好きな人が出来て、別れたいというのなら、わかります。でも、オレはあなたを離さないけど。逃げて、どこかへ行ってしまっても、追いかけて追いかけて、絶対に捕まえるけど」
 カカシは一回、言葉を切り、口布をおろした。
「まして、あなたが言うようなことで、別れたりするわけがありません」
 額宛も外し、覆う物のない素顔で、カカシはイルカを見つめる。
「オレは木の葉の里の忍者。あなたも同じ里の忍者。それが、それそれに任務を果たしていることが、どうして甘えてるの、利用してるのってことになるんです?」
 イルカは、カカシから視線を外した。
「おれは、自分の位置を利用してるんです。他の上忍の方が、同じように病み上がりだったなら、任務を回すのを止めるでしょう。でも、カカシさんなら、おれが困っていることを、わかってくれるはず、カカシさんなら、やってくれるはずって……」
 カカシは、イルカを自分の腕のなかに抱き取った。
「言葉が違うでしょ。そういうの、信頼っていうんです」
 イルカの耳に、カカシは低く囁く。
「オレはあなたが好きなんです。あなたの全部が。今のあなたのすべてが好きなんです。どこかがいいから、好きなわけじゃない。もし、オレを利用してるんだとしても、そうやって利用してくれるあなたが好きです」
「カカシさん……」
 イルカは、カカシの胸に頬を寄せて、言葉を吐けずにいる。
 しばらくの沈黙。
 ふいに、嗚咽が洩れた。
 驚いて、イルカは顔を上げる。
「ひどい、ひどいよ。イルカ先生。別れるなんて、言わないでよ」
 カカシが泣いていた。
「カカシさん、カカシさん!」
 イルカは慌てて、その涙を拭う。
「利用でも罵倒でも、なんでもしてくれていいよ。だから、別れるなんて、言わないで。オレから離れないで」
 しゃくりあげながら、カカシはこどものように語を紡ぐ。
「ごめんなさい」
 イルカは、やっとそれだけを言った。
 上忍の、写輪眼のカカシが泣くなど、想像してみたことすらなかった。
 しかし、カカシは泣いている。
 イルカは、小さく息をついた。
「ごめんなさい。ほんとうにごめんなさい。おれ、ほんとうに馬鹿です。別れるとか、そういうことじゃなくて、いちばん最初に言うのは、ごめんなさい、でしたね」
 カカシは、もう何も言わずに、イルカをきゅうきゅうと抱きしめる。
「オレは、あなたさえ、そばにいてくれれば、何でもする、何でも出来るから。だから」
「はい、ずっとそばにいます。恋人という位置を利用しまくります」
 イルカが、力強く言った。
 カカシは、微笑した。
 涙はもう、止まっていた。
 
 どちらからともなく、唇を合わせる。
 後は、言葉にならないものを、互いの体温で確かめる。
 きっと、確かめられる。
 
 
 
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