真実の瞬間(webバージョン)

イルカはひとつ、熱い息を吐いた。
それを皮膚近くに受けて、カカシは口角を上げる。
「感じるんだ? 愛してもいない男に抱かれてるのに」
喉を逸らしてイルカはきつく唇を噛む。
「出せばいいでしょ、声。いまさら気取ることないんだから」
カカシは緩く手を動かしながら、イルカの乳頭に舌を当てる。
桃色の舌が、もっと薄い桃色を責める。
ちくりと起ちあがる、それ。
別の生き物のように蠢く、それ。
執拗に、カカシはイルカの胸を刺激しつづける。
「ねえ、心臓ってこの辺りかな?」
口を離し、カカシは掠れた声で言う。
「心臓を取りだして、オレのものにしたら」
カカシは、白く長い指先で、イルカの肌に円を描く。
「あなたの心が、オレのものになるのかな?」
甘いほどに、掠れた声。
「あなたが、オレのものになるのかな……」
ふいにカカシはすべての行為を止め、イルカの胸に顔を突っ伏した。
「お願いだから」
イルカのせわしげな呼吸音。
「嘘でもいい、今だけの言葉でいいから」
カカシのくぐもった声。
「オレのことを好きだって、愛してるって言って」
イルカは何の語も発さなかった。
絶望的な声音で、カカシは呟く。
「嘘でも言えない、か」
「い……が…い……」
イルカがしわがれた声を出した。
ある期待に満ちて、カカシがイルカの口許に耳を寄せる。
「すべて、あげます。愛以外のすべてを、あなたに」
しばらく石像のように、カカシは固まっていた。
だが、ゆっくりと身を起こすと、獣のように頭を振るった。
銀色の髪が揺れ、黒と赤の瞳が光る。
「じゃあ、もらう! 愛以外、身体も何もかも全部!」
カカシは、荒々しく己をイルカに打ちこんだ。

酒場の喧騒は、いつもと変わらなかった。
イルカが視線を巡らせるより先に、のったりした声が呼んだ。
「イルカ先生〜。こっち」
銀色の髪を揺らし、カカシがイルカを手招く。
普段の白皙に、いくらか朱がさしていた。
「遅くなりまして、申し訳ありません」
律儀に礼をすると、イルカは封筒をカカシに差し出す。
カカシは、そこから札を卓にばらまく。
「少ないねえ。ほんとにこれで一ヶ月分?」
イルカは、表情も変えずに黙している。
「少ないよ。一晩の飲み代にも足りないんだから。ま、ないよりマシって程度? じゃ、もう帰っていいよ」
「失礼します」
また一礼し、イルカは踵を返す。
カカシと一緒に飲んでいた上忍たちは、気まずそうな顔をしていたが、イルカにもカカシにも言葉をかけることはない。
「待って。イルカ先生。私も帰るわ」
紅が立った。
カカシや、他の者が何を言うより早く、紅はイルカを追った。

カカシの本質は、優しい男だった。
意識して、そう振舞っているのではなく、優しい男だった。
「生まれつきもあるだろうけど、そういうふうに育てられたからね」
そうカカシのことを評したのは、くの一の紅である。
「サクモさん……お父さんも、四代目も、ほんとうに可愛がってたから。カカシのこと」
それなのに。
音にしない言葉が、イルカには聞こえてくるようだった。
「ごめんね、イルカ先生」
イルカは笑顔を見せた。
屈託のない、それ。
「紅先生に謝ってもらうようなことは、ありません。誰にも、謝ってもらうようなことは、ないんです」
笑みを返そうとして、紅は失敗した。
「わからない。私にはわからないわ。なぜ、カカシが、あなたに、あんなふうにするのか!」
「いいんですよ。俺が望んだことなんです。あのひとを、責めないでください」
花がほころぶような笑みだった。
それを残して、きっちりと礼をし、イルカは紅のもとから辞した。
形のいい赤い唇を、紅は噛む。
そのほっそりとした手首を、何かが掴んだ。
ひどく強い力で。
「教えてよ、紅。どうして、あのひとは、紅には笑うの?」
「カカシ……」
「ねえ。どうして、オレには笑ってくれない?」
「離して。カカシ」
「紅みたいな顔と身体をしていたら、そんなふうな甘い声をしていたら、あのひとは笑ってくれるの?」
「カカシ!」
紅は、手をふりほどこうと、もがく。
だが、手首を戒める力は強まるばかりだった。
「寄せ」
二つの声が重なった。
アスマとガイとが、両側からカカシを押さえる。
やっと、戒めから解放された紅の手首には、みみずばれに近い痣が残った。
「ねえ、教えてよ。あのひとに笑ってもらうためなら、オレはなんだってするよ」
ふたり掛かりで押さえつけられながら、カカシは言い続けた。

だれにも、止められなかった。
カカシはイルカを拘束していた。
生活も、身体も、すべての物質も。
イルカの毎月の収入さえ、カカシは奪う。
イルカは、ただ諾々と従うのみだった。
カカシとイルカと、知る者はだれもが止めようとした。
けれど、だれにも止められなかった。
カカシ自身にすら。

「他の人に、笑わないで」
イルカの裸身をまさぐりながら、カカシは言う。
「はい」
短い答を、イルカは返す。
「仕事もやめて。どうせ、あってもなくても、いいような稼ぎなんだから」
「わかりました」
カカシは激しく首を振る。
「いいよ! そんなことしなくて! オレに逆らいなよ。嫌だって言えばいい!」
「俺は……。あなたのものですから」
瞳を閉じて、柔らかな声をイルカは出す。
「じゃあ、オレを好きになって。愛して!」
何回となく、数限りなく、訴えられる、その願い。
「俺があなたに差し出せるのは、愛以外のすべてです」
そして、イルカの口から吐きだされる言葉にも変わりはない。
カカシは、ますます、かつえていく。

毎朝、訪れるカカシほどではないにせよ、イルカもよく慰霊碑に詣でた。
カカシと時間をずらすようにして。
九尾が里を襲うようなことが、なければ。
そのために両親が殉職するようなことが、なければ。

カカシを愛したかもしれない。

イルカは、刻まれた両親の名を、指で辿る。
あの、禍禍しい、赤い月の夜。
父も母も。
多くの忍も。
四代目火影も。
命を喪った。
闘いの場に出た、小さかったイルカは。
ある忍に、そこから連れだされ、助かった。
自分の命を救った、その忍者がカカシだと知ったとき。
イルカは絶望した。
そんなはずはない、と理性ではわかっている。
しかし、消せない。
自分も共に戦っていたら、ひょっとして両親を助けられたのではないだろうか。
そうでなくても。
あのまま両親と共に散っていれば、あの後の、身が凍るような寂しさを味わわずに済んだ。
命の恩人を、憎みはしなかった。
ただ、そのひとに愛を告げられたとき、イルカは絶望した。
過去がなくならない限り、自分は彼を愛せない。
そして、過去がなくなることなど、決してない。
恩人に捧げることができるのは、彼が望む、愛以外のすべて。
イルカは絶望のなかに、あった。

イルカの絶望は、自分の内側に、深く深く沈んでいったが、里には、それを手近な攻撃目標にする者もあった。
すなわち、うずまきナルトだ。

下忍になり。
スリーマンセルを組み。
里の者にも、理解者は確実に増えているはずであったのに。
あの夜と同じような、この赤い月が狂わせたか。
「死ねええええ。九尾!」
絶叫し、ナルトに躍り掛かる忍。
格上の相手に、ナルトは逃げることも、ままならない。
一瞬の躊躇いさえ見せず。
イルカは、ナルトに覆い被さった。
「イルカせんせいっ」
ナルトが泣くように叫ぶ。
痛みも恐怖もなかった。
すいっと次元の狭間に落ちていくような感覚。
イルカは、空を掴んだ。
その唇が。
もどかしく動き。
かすかな音を生み出した。

泣きじゃくるナルトの肩を、カカシは抱いた。
「だいじょうぶ。だいじょうぶだから。泣くんじゃなーいよ」
「カカ、せん……せ」
「ん?」
「イルカ、せん、せ、言った」
「え?」
「カカシ、せんせの、なまえ」
「おれの、こと、呼ばなかっ、た。いしき、うしな、う、まえっ。 カカシせんせだけ!」
ひどく聞き取りにくいナルトの声が告げる事実は、カカシの世界をかえた。

なぜ、言葉にこだわった?
なぜ、真実を知ろうとしなかった?
愛以外のすべて。
すべてを、くれた。
なぜ、それが愛じゃない?
あんなにも。
あんなにも。
イルカはカカシを愛してくれていた。
愛してくれていたのだ。

白い部屋のなか。
横たわるイルカの傍らに、カカシは跪いた。
祈る形に手を組んだ。
「愛しています。あなたを愛しています」
それは、祈りの言葉。
「もう、間違えません。……あなたに騙されませんよ」
カカシは、イルカの指に自らのそれをからめる。
真実の瞬間を経て、永遠が今、彼らの手の内にあった。

戻る