「優しくしないでください」
イルカは、唇を震わせるようにして言った。
その語の意味するところが、カカシにはわからなかった。
上忍控え室で、カカシが美味くもない紙コップのコーヒーを飲んでいると、アスマが仏頂面で入ってきた。
「よ。景気、悪そうだねえ」
カカシは、明るく挨拶する。
「おお。おまえも辛気臭いツラしてやがんな」
アスマも、よく徹る声で返す。
そして、カカシの向かいにどっかりと腰掛けると、咥えていた煙草を灰皿に捨て、新しいものに点火した。
しばらく、煙をもくもくと吐いていたアスマが、ちらりとカカシを見た。
「なあ、カカシ」
「んー?」
「おれって優しいか?」
カカシは思わず、コーヒーを吹きそうになった。
「蛙が嫌いだって知ると、わざわざ三日もかけて里一でっかいのを捕まえてきて、それを人の鞄に仕込んどくような人間を優しいというんだったら、おまえはめちゃくちゃ優しいよ」
「てめっ、二十年から昔のことをまだ根に持ってんのかよっ。あれは、その前に、おまえが、俺の分のメシを食っちまったからじゃないかよ」
「違いますー。何度も言うけど、あの弁当は元々、オレが先生から貰ったものだったの」
「いーや、俺が貰ったんだ」
声を荒げたところで、どちらからともなく顔を逸らし、アスマは煙を、カカシはため息を吐いた。
「やめよう。きりがねえ」
「同感」
カカシは口布を下げ、アスマの吸っていた煙草を奪った。
「で? 何が言いたいのよ?」
ゆっくりと煙を吐く。
アスマは、カカシを横目で見ただけで文句も言わず、さらに一本を出す。
「ああ、なんかな、女に、アンタは優しすぎるって言われちまってな」
「あらら」
カカシは、あまりのタイミングの良さに驚く。
―優しくしないでください。
その言葉に、この二、三日ずっと悩まされている。
「別に特別なことしてねえし、妙な仕掛けをしてるわけでもねえのよ、その女には。で、優しくしてくれって言われるんなら、まだわかるけどもよ、優しすぎるってのは、なんだ?」
「そうだよねえ。優しくしてくれってんなら、まだ想像もつくし、対処の仕方もあるんだけどねえ」
しみじみと、カカシは言う。
「お。おまえも、なんか言われたな?」
アスマは、舌なめずりせんばかりである。
「オレのことは、いいの」
カカシは、煙をわざとアスマに吹きつける。
「本気なんだ、そのひと」
「まあな」
アスマは、面倒くさそうに、しかし否定をしない。
子供のように、カカシは小首を傾げてみせた。考えるときの、昔からの癖である。
「オレらが優しいとは思えないんだよねえ。自分でも。だからさ、これは逆なんじゃないの? 優しくしてくれっていうさ」
アスマは、感嘆の面持ちでカカシを見た。
「おまえ、百万年に一度くらい、いいこと言うよな。うん、それなら、納得いかあ」
「そうなんだよ、きっと。優しくしたげなきゃ、いけないんだよ」
髭と銀髪の上忍は、希望に燃えてすっくと立った。
だけど、優しくするって、どういうこと?
「カカシ先生、こんにちはー」
山中花店で、看板娘いのに挨拶され、カカシはうっそりと返す。
「はい、こんにちは。頼めば、花束も作ってくれる?」
「ええ? カカシ先生がお花を買うんですかあ? わあ、恋人にプレゼント? 意外―」
「これ、いの。先生に失礼なこと言うんじゃありません」
いのの母が出てきて、娘を軽く叱り、カカシに笑みを向ける。
「どんなのをお作りしましょう?」
「んー、なんか綺麗なのを適当に、豪華に」
「適当に、豪華にですか。じゃあ、春の花でまとめましょうか」
母は苦笑しながら、花を選んでいく。
スイートピー、カーネーション、バラ。
カカシは、目前に差し出された花束に、頭の後ろをかく。
「なんてーのか。ほんとうに綺麗で豪華だねえ」
代金を払い、花束を抱えた男は、ひどく照れていた。
「やっぱり、あれって恋人への贈り物だよね」
「そうでしょうねえ」
弾んだいのの声に、母も微笑した。
忍服で花束を持つのは、気恥ずかしいので。
私服に着替えて、額あても外してしまった。
花で顔を隠すようにして、往来を行く。
「カカシ先生!」
声を掛けられて、カカシは逃げだしたくなる。
だが、にっこり笑って前に立ったのはイルカだった。
「すごく綺麗ですねえ。送別会ですか?」
「いえ、そんなんじゃないんです」
カカシは、花束をそのままイルカに突きだす。
「これは、あなたに」
イルカは、目をまん丸に見開く。
優しくする方法なんか、わからない。
だから、聞いたことがある方法で試してみる。
愛しい人には、花を贈る。
イルカは、泣きそうな顔になった。
「おれ、花束なんか持っても、カカシ先生みたいに似合いませんから」
「どうして? イルカ先生、花は嫌いじゃないでしょう? わりと、イルカ先生に似合う色を選んだつもりなんだけどな」
カカシは、首を傾げて尋ねる。似合う似合わないって、どういうことだろう。
「好きな人に、花束を贈るって基本だと思ったんだけど」
イルカは、頑固に繰り返す。
「おれに、花束なんか似合いませんから。カカシ先生、おれなんかに優しくしないでください」
イルカは、小さく頭を下げると、小走りに去っていった。
カカシは、両手いっぱいに花を抱えたまま、呆然とした。
花束を受け取ってもらえなかったこと。
また、優しくしないでくれと言われたこと。
しかも、今度はおれ「なんか」と、なんか、までついている。
カカシは、花を抱えたまま、ただ立ちつくしていた。
根が生えてしまいそうなほど立っていたが、イルカが戻ってくる気配もないし、カカシは小さく息を吐いて歩きだした。
花で顔を隠すようにしたまま。
なぜイルカは受けとってくれないのだろう。
優しくしないでって、どういうことなのだろう。
考えこんでいたので、声を掛けられるまで気がつかなかった。
「花束をお持ちのお客様。花を一本、落とされましたよ」
からかいを含んだような女性の声に振り向くと、美しいくの一が笑っていた。
「ああ。紅」
花束を抱えなおして、差し出された一本を摘む。
それを、そのまま、カカシは紅の胸元に挿した。
「綺麗な花は、綺麗な紅に似合うよ」
さらりと真顔で言う。
「ほんとうは、この花束ごとあげてもいいんだけどねー。誰かを想って買ったものを、他の人にあげるのは失礼だからね」
紅は、顔をしかめた。
「なぜ、あなたたちって、そんなに優しいのよ? そういうふうに優しいのって、けっこう傷つくよ」
「え? オレ、普通にしてるつもりなんだけど。って、あなたたちの、たちって、誰のこと?」
紅は、唇を噛みしめて、煙とともに消えてしまった。
カカシは、呆けた表情で、それをぼんやりと見ていた。
イルカは、聞こうと思ったわけではない。
ちょうど受付のひまな時間帯で、話が聞こえてきてしまったのだ。
カカシや、アスマという名が耳に入って、どうしても内容をおってしまう。
「ほら、カカシやアスマは、四代目の影響を受けてるから」
特別上忍みたらしアンコは、苦笑する。
「全部のお手本が、あの人なんだから、しょうがないって」
「しょうがないのかしら?」
紅が、こめかみに指を当てる。
「呼吸をするのと同じに、タラシて歩いていたような男だから。女だけでなくて、男でも誰でもだから、人タラシというのでいうのかな?」
アンコが笑う。
イルカも思い出す。
若くして英雄になった、金髪碧眼の四代目。
里の皆が、大好きだった。
幼かったイルカも、たまたま声をかけてもらったりすると、一日中、嬉しかったものだ。
「だから、人にはそうやって接するものだと、小さいときから植えつけられちゃってるんだよ。カカシもアスマも。意識して言ったりやってるんじゃないって」
そこに至ってイルカは、どうやら紅も、自分と同じことで悩んでいたのを知った。
カカシは優しい。
優しくしてくれて、とても自然に好きだと言ってくれる。
だけど、イルカには信じることが出来ない。
彼は、誰にでも優しいから。
いつでも、優しいから。
他の人には真似ができない優しさだから。
―これ、運ぶんですか? オレ、ヒマなんですよー。ヒマつぶしさせてください。
―プリント印刷、大変ですねえ。ここの機械、ときどき拗ねるでしょ。そういうときの、オレに渡してくれればいいですから。
―イルカ先生は、教え方が上手なんですねー。サクラを見てるとわかります。イルカ先生がいい先生で、いい生徒を育ててくれたから、オレが助かります。
―待ってなんかいませんよ? オレに都合よく、しただけですから。
恩を着せることなく、押しつけがましくなく、差しだされる手。
さりげなく、認めてくれる言葉。
それは、大袈裟なものではないけど、大袈裟なものではないから、もらったときに涙が出そうなほど、嬉しい優しさだった。
「嘘はないんだって。だから、信じていい。思いきり優しくしてもらいな」
紅は、アンコに励まされている。
そのときに、イルカは思い当たった。
紅は、カカシについて相談している。
彼女もカカシが好きなのだろうか?
たしかに、紅とカカシならお似合いだ。
「だったら、やっぱり、おれなんかに優しくしなければいいのに」
誰にでも優しいのは残酷だ。
紅だけに優しくして、彼女が特別だとわからせてあげればいい。
イルカは、大きく首を振った。
心の奥底では、自分だけがカカシに優しくされたいと願っている浅ましさを、感じたからだ。
「イルカ先生〜」
いつものように、右眼だけを外気にさらしたカカシが、のったりとイルカを呼ぶ。
イルカは強張ってしまった。
「飲みに行きません?」
「あの」
イルカが返事をするより早く、カカシが語を継ぐ。
「アスマの髭熊野郎が、身の程知らずにも紅姐さんに惚れてましてね〜。割れて砕けて裂けて散るだろうと踏んでたんですが、姐さん、下忍担当のストレスがよっぽど溜まってたのか、ほだされましてね。で、あの二人を邪魔してやろうと」
カカシは、眼を弓形にしてにっこりと笑う。
どうやら、カカシは一押しのきっかけを作ってやるつもりらしい。
イルカは、自分の勘違いに、誰かに知られたわけではないけれど、頬を紅潮させた。
確かに、あのときアスマの名が出ていた。
それなのに、すぐに紅がカカシを好きだと思いこんでしまった。
…いくら、自分がカカシのことしか考えてないからって。
「オレは、大好きなイルカ先生と二人きりのほうが、ずっといいんですけどね〜」
どんなに拒絶しても、カカシの口からあっさり紡ぎだされるイルカへの好意。
今までは、かたくなに反論した。
だけど。
「じゃあ、頃合を見て、二人きりになりましょう。アスマ先生や紅先生のためにも」
いつにないイルカからの肯定に、カカシは驚いた表情になる。
「それから……。今更なんですけど。おれ、花は好きです。いつかは、すみませんでした」
深く腰を折るイルカに、カカシは、ひらひらと掌を振る。
「ああ、そんな。オレのほうが悪かったです。いきなり、あんなもの、困りますよね」
「いえ! 今度は、今度は躊躇ったりしません! おれは花なんか、似合わない男ですけど! 好きなカカシさんから、頂けるんでしたら」
カカシは固まっている。
イルカは赤くなった。
「すみません! 催促しているみたいですね。そういうつもりじゃないんです」
徐々に、カカシの強張りがとけて、やがて、顔いっぱいに幸福の色が広がった。
「花畑ごとプレゼントしますよ。だから、もう一回、好きだって言って」
「置くところがないから、花畑はいりません」
生真面目に言ったあと、イルカは小声で、カカシの望む言葉を与えた。
カカシは、イルカを抱きしめるために、腕を伸ばす。
優しさは、重なりあって、幸福になる。