夜が明ける。11
 
最も冷えて、暗い時間だった。
明夜は、鉄製階段の中ほどに座り、ぼんやりと空を見上げていた。
この階段は、重原と「グリコ」をしながら登った階段。
あの頃、広臣はまだ貧しかった。
だが、今、思い起こすと、いちばん幸せな時間だった気もする。
重原にも、そんな気持ちがあったのかも、しれない。
明夜が、一人で暮らすことになったとき、この部屋を借りてくれた。
当時よりさらに古びた建物は、残っているのが不思議なほどで、家賃が安いのだけが、取柄だった。
だが、現在の明夜は、その部屋代を捻りだすのにも、苦労しなければならなかった。
明夜の小説は、売れなくなっていた。
三年も経っていないというのに、美形作家などと、もてはやされた容貌を、うかがうことは出来ない。
頬は削げ、目の光ばかりが、魅力的ではなく目立つ。
 
赤尾と争った直後から、明夜は、それまでになく、書きたい、という熱望にとりつかれるようになった。
だが、今まで、明夜の身体を素通りするだけのようにして、産みだされていた文章が、出てこなくなった。
書きたいと思えば思うほど、表現に詰まった。
書きあげられる文章は、自分でも気に入らない。
だが、物語りたい、小説を書きたいという情熱はやまない。
眠れず、食べても吐き、そんな日々が続いた。
広臣が心配から叱りつけたが、どんなに身体が弱ろうと、書きたい、という思いは強まっていく。
そうして書きあげられたものに、出版社は渋い顔をした。
それまで、新刊が待望され、熱愛される作家の一人であったのに、読者もその作品を歓迎しなかった。
次の作品も売れなかった。
その次の作品は、出版を拒否された。
 
同じ頃、広臣は新しいソフトで失敗し、会社を奪われた。
重原の助力を得て、立ち直るであろうことに間違いはない。
明夜は、自分の原稿料や印税からなる貯金を、すべて重原に託し、一人暮しを始めた。
広臣は激怒した。
「俺の人生設計に、倒産や破産はあっても、おまえと離れるなんざ、入ってねえよ」
「広さん。おれが書けなくなってるの、知ってるでしょ? でも、おれは書きたいんだ。どうやったら、いいのかわからないけど、書きたいんだ。一人で考えてみるってのも、手だと思う」
明夜は、自分をひとにしてくれた男を、真正面から見つめて言った。
広臣は、泣きそうな表情で、明夜を荒々しく抱きしめ、唐突に突きはなして、言った。
「勝手にしろ。しょうがねえやな、遅くても反抗期てのは、来るもんだ」
ひどくおかしくなって、明夜は笑った。
 
自分の身を養う。
それは、考えていた以上に難しかった。
一度、名は出ているから、コラムやエッセイの依頼はあったので、それで糊口をしのいだ。
二十歳過ぎて、ただの人。
かつての美少年。
耳に届いてくる嘲けりや悪口にも、腹は立たなかった。
辛いのは。
ただ、辛いのは、書けないこと。
書きたいと思うのに、書けないこと。
納得がいかない文章を、生活のために、売らなければならない。
 
翼が折れた鳥は、細く頼りない足で、地を這いずっていくしかない。
 
広臣は、仕事で飛びまわっている。
連絡をくれるのは、重原だった。
妙子について教えてくれたのも、彼である。
彼女は、九州に職を得たが、そこでいろいろと苦戦しているようだった。
苦戦している同士、改めて広臣と妙子は近づいているようだ。
幸せになってくれるといいなあ、と明夜は思う。
もう一度、家族になるといい、と切に願う。
 
人は変わっていく。良くも悪しくも。
そして、どこからでも、やり直せる。
 
夜空を見あげて、煙草が吸えたらいいな、と明夜は思う。
そうしたら、こんなとこに、こんな時間に座っていても、格好がつくのに。
提灯持ちの、映画評を書く仕事の締切が迫っていた。
たかだか六百字程度の量だが、それすら、明夜には苦行だった。
書かなければ、暮らしていけないから、書く。
書くために、苦しんで苦しんで、納得のいくものが書けたことはない。
それでも、書く。
書きたい、という熱情が、常に身を浸しているから。
 
とうに夜半も過ぎた時間に、足音が響いてきて、明夜は眉根を寄せる。
この辺りは、夜になると、急に人通りがなくなるのだが。
足音は、闇に、ぼんやりと人の形をとって、明夜の前で止まった。
街灯が、青年のすらりとした姿を照らしだす。
「探しました」
凛とした声が、言った。
以前のように、性別が不明なほどの美貌ではないが、充分に美形の青年である。
だが、機械めいた印象がないのは、瞬間、瞬間で変わる表情のせいだろう。
「赤尾零」
明夜は、その名を呟いた。
「はい。ご無沙汰しています」
零は、深く一礼した。
「いろいろ探して、やっと三田さん秘書の方と連絡がとれて、ここを教えてもらったんです」
にっこり笑って言いながら、零は背負っていたデイパックから、一冊の本を出す。
「父が、どうしても、あなたに渡したい、と。春日さんには、郵送させてもらったんですが」
明夜は、無言でそれを受け取り、か細い街灯のあかりを頼りに、頁をめくった。
それは、赤尾の研究書だった。
魂を刻んで、一文字一文字を綴ったように、真摯に、考察の結果が述べられていく。
明夜は見入った。
先学に対する敬愛。それは、妙子や明夜のような若輩にも払われている。
長年の研鑽によるデータの集積と分析。
そこから展開される、説得力のある論理。
何よりも、研究対象に対する深い愛。
見事だった。
刷りあがった時点で名著となり、古典となるべき運命を持った、稀有な本となっていた。
後書きにも、妙子や明夜が師と仰いだ人物が、数段、滋味と深みを増してそこにいた。
地位や名誉や、世間というものに踊っていた自分を率直に認め、反省し、研究対象への愛情を切々と語っていた。
そして、学恩を春日妙子、三田明夜の名をあげて、感謝し、詫びた。
最後に、データ分析に多大な労をとってくれた、として、この書を、愛息 零に捧げていた。
「愛息 零」の文字に、明夜は泣きそうになった。
「この三年、二人とも、これに掛かりきりでした。僕、こき使われましたよ。なんだか、後書きで、きれいにまとめてますけど、怒鳴り合って、殴りあい寸前の喧嘩もしましたよ」
それを、零は笑って語る。
「いい時間だったんだね」
「そりゃ、もう。出来あがったのは、まったく売れない本一冊くらいに」
皮肉の言い方まで、零は覚えたらしい。
腰を落とし、零は明夜と目を合わせた。
「考えてました。ずっと、あなたのことを考えてました」
「親のかたきって?」
軽口を叩く明夜に、零は首を傾げる。
「いいえ。妙ですけど、そんなふうに思ったことは、一度もないです。だから、不思議で、本を口実に、会いにきました。それで、やっと、わかりました」
「なんだった?」
動揺を押さえ、明夜は尋ねる。
「あなたに会いたかったんです。それだけです」
頭で考えるより先に、身体が動いた。
 
明夜は零を抱きしめた。
体温が、とても心地よかった。
 
「上がっていってくれないか。何もないところだけど」
「はい、お邪魔します」
永遠にも似た刻のあと、ごく普通の調子で会話する。
それが、おかしくて、二人で同時に笑いだした。
「いろいろ、話していいかな」
零の手を握り、階段を登りながら、明夜はこわごわと問う。
「もちろん。僕も、話したいこと、たくさん、あります」
「おれ、売れないスランプ中の作家だから、愚痴しか出ないかもしれないよ」
「平気ですよ。そういう人のそばに、ずっと、ついてましたから。なまじの編集者より凄腕だって、出版社の人に言われました」
「頼もしいや」
二階について、ふと振りかえると、世界が燃えはじめていた。
朝日がのぼろうとしている。
「夜が明けますね」
零が言った。
「ああ、夜が明ける」
明夜も頷いた。
 
 
飛べないのなら、萎えた足で、地を行けばいい。
明けない夜は、ないから。
どんなに長い夜も、明けないことは、決してないから。
 
明夜。
 
夜が明ける。
 
 
 
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