御飯を食べよう。
 
時は平安、花の都の大路の外れ。
 敷地は広大だが、かなり庭も建物も荒れている。
 あちこち破れ目のある部屋で、乳母子である松葉の給仕を受けながら、顕子は朝餉を摂っていた。
「姫様。言いにくございますが」
 まったく言いにくそうではなく、松葉が言う。
「言わなくていーよ。米も味噌も、もう無いってんでしょ」
 汁を啜って椀を膳に置き、顕子は素っ気無く返す。
「春日沢家も、来るとこまで来たって感じかな。
 父も母もなく有力な後見もない、貴族の娘くらい情けないもんってないよねー」
 顕子は、未練がましく菜をつつく。
「物語草子なんかだと、光る君やら、新参者の武士やらが、あたしを妻にってくるもんだけど」
「姫様は末摘花のように徹底しても、輝くように美しくもありませんしねえ。
 現実は、物語のようにはなかなか」
「何気に酷いこと、言われてる気がするけど」
 膳をおしやり、顕子は宣言した。
「他人を当てにしても、しょうがないってことよね。あたし、自立するわ」
「出家なさるので、ございますか」
「そこまで思いきってないわよ、十六の身空で。
 朝廷に上がるのよ」
「姫様、それこそ物語を望むより難しゅうございます。
 お上からお名指しがあったでなく、後見の方もなく、お支度も何もかないませぬ」
「だれも、女御、更衣にあがるつってないわよ。
 どなたか時めいてる方の局に入りこんで、米、味噌、醤油をかすめとってくるのよ」
「かすめとるなどと、姫様。
 おいたわしい。やんごとなき春日沢家の姫君が」
「嘆いたところで、どうなるでもなし。お腹が減るだけよ。
 ここは、行動あるのみ!」
「わかりました。この松葉、地獄の果てまでも、お供いたしますわ」
「いや、地獄はやめようよ、地獄は」
 こうして、十六の娘二人、宮中に勝手にあがることを決めたのであった。
 
 
 平安貴族の乗り物の定番は、牛車(ぎっしゃ)である。
「良うございましたわねえ。お隣さまが快く、御車を貸してくださって」
 牛車のなかで揺られながら、松葉がしみじみと言う。
 当然のように春日沢家では、当の昔に牛も車も手放していた。
「うん。たんと米や味噌や野菜もかすめてきて、お隣にもお裾分けしようね」
 顕子が、つくづくと貴族の姫からは程遠い発言をした。
 そのうちに、牛車が門をくぐっていく。
 いちおうのこと、家名はある春日沢家、門番をごまかし、とうとう後宮に辿りついた。
 
 
「どこへどう参れば良いのでしょう」
 先も見えないほど長い渡り廊下で、松葉は動揺している。
「うーん。とりあえず、きらびやかな匂いのするとこに行けばいいんじゃないかな」
「きらびやかな匂いって、どんなのでございますか」
「雰囲気よ、雰囲気」
 埒があかない会話を交わしている少女たちの前に、若い公達(きんだち)が立ちふさがった。
「名乗られよ。どこがお局の女房殿か」
 慌てて顕子も松葉も、扇で顔を隠し、松葉が気取った声を出す。
「宿下がりより戻りたる姫ですわ。お見知りおきございませんでしたでしょうか」
「む。宿下がりの女房殿というと、梨壷の……」
「そうそうそうそう。では、急ぎます故に。案内(あない)はいりませぬ」
 扇のかげで目と目で頷きあい、じりじりと公達から離れると、顕子と松葉は梨壷に向かった。
 公達は、まだ納得のいかない顔で、少女たちの後姿を見送っていた。
 
 
 梨壷では、女房たちが右往左往していた。
「秋の梅ではいかが」
「いけませんわ。語運びが良いではありませんか」
  「はあ。出来ないものねえ。辻褄の合わないお歌って」
 顕子は、行き掛かりの女房の袖を引いた。
「何の騒ぎでしょう」
「まあ、ご存じなくて? 呆れたこと。例の保憲様へのお返しですわよ」
「返歌に、なんでまた辻褄の合わないものなんて?」
「今更ですわ」
「ちょっと宿下がりしていましたもので」
 顕子がぼそぼそと言うと、別の女房が答えてくれた。
「梨壷の御方様は、帝のお側にあがられることになりましたのに、保憲様はお諦めになれず」
 また違う女房が引き取った。
「保憲様は和歌の上手にして、右大臣家にも連なるお方。帝も御方も邪険にはなされず」
「ついに、保憲さまが歌人の名誉をかけて仰るには、
 大和歌の心を壊し尽くすような御歌を返せたなら、梨壷の御方を諦めよう、と」
「ああ、お喋りが過ぎましたわ。刻限が参ります」
 顕子は、松葉の耳元に囁いた。
「時めいている方々の考えることって、わかんないねえ」
「米や味噌がないっていう悩みは、わかりやすいですわねえ」
 松葉もため息混じりに返す。
 ついていけず、ぼんやりしている顕子と松葉の前に、殺気だった形相の女房が現れた。
「のんびしていないで。あなた方も考えて!」
「へ? どんな上の句にも合う下の句なら知ってますが。
 それにつけても金の欲しさよ、というんですが」
「合っては駄目なのよ!!
 ああああああ。刻限が参りますわ。
 保憲様は、御方を奪ってお上に叛旗を翻すのよ!
 そして、戦乱の世の幕開けよ!
 梨壷の御方は、現代の楊貴妃として、後々まで語られるのだわ!」
   女房が世界に入っている間に、そろそろと顕子と松葉は、局を出た。
 
 
 顕子と松葉は、廊下で揃って嘆息する。
「米だの味噌だの、言い出せるい雰囲気じゃないねえ」
「別のお局にもぐりこみますか」
「お、松葉も言うようになったね」
 そこへ、武器を携えた先刻の公達が現れた。
「やはり、梨壷に入りこんだか」
 顕子と松葉は、互いの手をとりあった。
 公達は仁王立ちである。
「どう調べても、貴女らのような女房は出てこぬ。
 何が目的で、ここまで入りこんだ?」
「いや、目的は一つなんですけど」
 顕子が力弱く言いかけたとき、力強く顕子の腹が鳴った。
 公達は、呆気にとられている。
 顕子と松葉は、赤面した。
 
 
 余計な飾りはないが、品の良さが感じられる居室で、顕子と松葉は饗応されていた。
 箸を置いて、顕子は長く息を吐く。
「御馳走様でございます。こんなにお菜たっぷりなのは久し振り。
 あなたって、いい人ですね」
 公達は苦笑した。
「私のほうこそ久し振りだ。そんなふうに言われるのは。
 最近は、天下の大悪党の如く称されている。特に梨壷では。
 我が久我保憲の名はな」
「ええ。では、あなたが、あの妙てけれんな騒ぎのもと。
 なんだってまた、帝のお側人に懸想など」
 保憲は、語気荒く言った。
「違う。帝が横取りしたのだ。梨壷の御方は、私に和歌の手ほどきをしてくださった方。
 歌人として、現世の男には嫁がぬとまで、仰られていたものを」
「ははあ。なるほど。初恋の君の夢破れ、和歌まで憎く、で、あんな無茶を」
「そんな一言で片付けられるようなものでは」
「あるじゃないですか。初恋ってのは破れると相場が決まってるんです。
 わかりました! 一飯の恩義に、見事、初恋を葬ってさしあげましょう」
「姫様、あんまり初恋が破れる破れると仰っては、振られたのを強調するようで気の毒ですわ」
 松葉の言葉のほうに、保憲は傷ついたような顔をした。
 
 
 場所は再び梨壷である。
 女房たちは、まだ右往左往している。
 勢いよく、顕子は乗りこんだ。
「皆様。難しく考えるから、いけないのですわ。
 阿呆阿呆しく、いきましょう」
 宣言し、顕子はおもむろに短冊を差し出した。
 女房たちが、どよめいた。
「なんて、下手なお手跡(おて)」
 顕子はつんのめりそうになり、松葉は苦笑した。
 
 
 よけいな飾りはないが、品のいい居室で、保憲はその文を受け取った。 
 
 美味味噌の富士の高嶺にえんやこら美男僧より福寿草
 
 保憲は、肩を震わせて笑った。
「歌もひどいが、ここまでひどい字は見たことがない」
 そして、しばらく何かを考えていたが、やおら筆をとって書き付けを始めた。
 
 
 春日沢家の屋敷である。
 荒れ方も零泊ぶりも変わってはいないが、膳は違った。
 潤沢な菜に彩られている。
 給仕をする松葉は、しみじみと言う。
「いいですわねえ。食べ物がたっぷり、あるって」
「うん。運がよかったよねえ。梨壷の御方と帝と、なぜか保憲様からも、たっぷり頂いて」
「帝からお叱りは受けましたけど、お隣様にもお返しできましたし、めでたしめでたしですわ」
「梨壷の御方、あたしに局に来てほしいって、けっこう本気だったと思うよ」
「それは……。姫様のお手跡では。お勤めがつとめるとは……」
「……手習い、真面目にします」
 
 
 午後。決死の面持ちで、墨と筆と格闘している顕子の居室に、松葉が駆けこんできた。
「姫様っ。大変ですわっ。お文がっ。殿方からお文がっ」
 ぽかんとしたまま、文を受け取った顕子は、差し出し人の名前ににっこりする。
 久我保憲。
 
 味噌美味の菜もたわわなりまろが卓君と囲まんこの夕べ
 
「とりあえず。夕餉を共にしましょう、とお誘いを受けていると解釈して宜しいのでしょうか」
 松葉が首をひねる。
「さあて、張り切って返歌をしなきゃ」
 満面の笑みで、顕子は筆を振るった。
 墨が飛び、松葉がひとしきり小言を並べたが、顕子はずっとにこにこしていた。
 
 
 
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