はつ恋
 
ACT.1
玄関の扉を開けると、いつもどおりの旧い家の気配が有里を迎えてくれた。
実際は父の代になって最近、建替えたものであるから、まだ新しくて現代的なのだ。
だが、長く続いてきた家は、新築の瞬間からその旧さを漂わせているように、有里には思える。
ただいま。
有里は、その気配に向かって、心の内で言う。
母と姉が出ていって後、その言葉を声に出すことはない。

父と母は、決して諍いをしたわけではなかった。
仲睦まじかったように、有里には見えていた。
また、姉と有里も。
離れて暮らすようになるなど、考えてみたこともなかった。
だが、母は、自分の生まれた家に戻り、姉は母と共に行った。

母の生家は、父よりも、さらに長く続いてきた旧家であった。
この家より、旧い家の気配は、もっと濃い。
だから。
と、有里は考える。
あの気配が、母を取り戻し、姉を呼びこんだのだろう、と。
有里は、幼稚園から、資産家の子ばかりが在籍する私立学校に通っているが、中学校の二年生になった今でも、家の続いた長さや、財力や、親が世間に持つ影響力やらが、一番二番では無いにせよ、他の子にひけをとったことはない。
それが自慢だとは思ったことはない。
有里自身のものでは、ないからだ。
父や母のものですら、ない。
あえていうなら、この「気配」の所有するものだ。

私室で制服を脱ぎ、部屋着になって、ぼんやりとしていると、ピアノの音色が聞こえてきた。
一瞬、父が帰ってきたのだろうか、と疑った。
有里の父は、コンサートピアニストである。
作曲も手掛け、世界的に名が売れている。
現在も、アメリカで仕事をしているはずなのだが。
何フレーズかを耳にして、その音が父のものではないことを、有里は断じた。
 
叶貴広が弾いている。
 
有里は、鏡で髪を確認して、リビングルームに向かった。
 
燦燦と陽がふりそそぐサンルームにもなっている広々としたリビングの中央に、グランドピアノは配されていた。
高名なメーカーの、名器だそうだ。
何度か、ここで父の、小さなコンサートを兼ねたホームパーティーをやった。
そのときの主役は父ではなく、母であり姉だった。
さらさらと衣擦れの音をさせながら、客の間を渡り、もてなして回る母と姉は、美しい、別の生き物のようであった。
姉と四歳違う有里はただ幼くて、お菓子をもらって、早々に寝かされてしまう存在でしかなかったが。
母と姉が出ていくずっと前から、そんなパーティーは開かれなくなっていた。
父は、完全に防音の整った地下室にこもって、仕事をするようになり、その旋律がもれてくることは、無くなっていた。
 
貴広は、ドビュッシーを奏でていた。
『月の光』。
『亜麻色の髪の乙女』。
有里でも知っているフレーズを、軽やかに、鍵盤に紡ぎだす。
「有里ちゃん、ごめん。勝手に弾いてるよ」
有里が入ってきたことに気付き、顔も見ないまま、貴広は言う。
「うん。叶さんしか弾く人、いないから、遠慮しないで」
何の感情もこめずに返し、有里はピアノの脇に立つ。
「こんなに、よく歌うピアノは無いのになあ」
低く呟くようにして、貴広は目を閉じる。
ピアノの歌だけに、耳を澄ませるためのように。
ピアノが歌う、という比喩は、有里にはわからない。
よく貴広が言うので、詳しい説明を求めたことがある。
貴広は、困ったような顔をして、歌うんだよ、と言った。
―俺が弾いてる音にね、ピアノの中にいる何かが、合わせて歌うのが聞こえてくるんだ。―
有里は、ますます、わからなかった。
唐突に貴広は、目を開けた。
手は休めないで、有里を見る。
「でも、俺も、弾きに来らんなくなりそうだよ」
「どうして?」
有里は、驚いて問う。
笑って、貴広は答える。
「さすがに、来年の春、卒業して就職したら、そんな時間、無くなりそうだ」
「叶さん、音楽の仕事をするんじゃないの」
「しない。コンピュータの会社に入る」
「だってだって、音楽の大学なのに」
「面接でも、散々、言われたよ―。なぜ、音大生がうちの会社をって。けど、採ってくれるとこが、あったから」
有里は呆然とした。
たとえば、父と母が、有里が生まれた時から、父と母であったように。
貴広は、有里の物心がついたときから、ずっとこのピアノを弾いていた。
永遠に、このピアノを弾きつづけるのだ、と思っていた。
 
有里の父は、苦労してピアニストになったわけではない。
豊富な財力に裏打ちされて、まったくの不自由なく、資質を伸ばした。
そうした人にありがちなように、人と対することは得手ではなかったので、生徒をとって教えるということは、まず、なかった。
叶貴広だけは、義理ある筋から頼まれて、渋々とであっただろうが、引き受けた。
当時、中学生だった貴広は、週に一度、この家に通ってくるようになった。
父が外国に行ったりコンサートで不在のとき以外、それは欠かされることがなかった。
高校生になって、本格的に音大受験を目指す、ということになったとき、父は、そうしたことに強い芸術大学の教授に、貴広を託した。
実質的には、父の生徒ではなくなった貴広だったが、定期的であったものが、不定期になっただけで、この家に来て、このリビングのピアノを弾くことは変わらなかった。
大学に入ってからも。
母と姉がいなくなり、すっかり客が途絶えてからも。
こうして、父が留守であっても。
 
有里は、なぜだか泣きそうになっていた。
「ずっとずっと、弾きにきてたのに」
「そうだね」
「ずっとずっと、弾きに来ると思ってた」
「そうだね」
生返事というわけではなかったが、貴広は、他の語を持たないようだった。
 
不意に、貴広は喉を逸らした。
自分が弾く旋律に合わせて、歌いだす。
有里が聞いたことのない、外国語だった。
祈りの文句に似ているような気がする。
ピアノではなく、貴広が歌っている。
ピアノも、歌っているのかもしれない。
貴広の喉仏が、くっきりと形を作る。
男の人なんだな、と有里は初めて感じた。
貴広は、叶貴広でしかなく、男性だと意識したことがなかった。
高くも低くも、澄んでも掠れてもいない、歌声。
男の人の声。
祈っているような、歌声。
 
有里の胸が歌った。
 
その歌に、有里自身が驚いた。
歌っている。
私ではない、なかの何かが、歌っている。
有里は、ぎゅっと胸を押さえた。
痛い。
苦しい。
でも、きれい。
なんだろう。この歌は。
 
旋律がやんだ。
歌声もやんだ。
有里の胸だけが、やまない。
貴広が、仰天したような表情で、有里を見ている。
「有里ちゃん」
どうしたのだろう、と有里は訝しく、貴広を見返す。
「ごめん。泣かないでよ。二度と来ないわけじゃないから」
言われて初めて、有里は己が泣いていたことを知った。
慌てて目の端に手をやると、なるほど頬まで濡れていた。
「そんなんじゃ」
意味を成さない言葉を発しながら、ごしごしと擦る。
「俺の歌に感動した? な、わけないか。あんまり情けなくて、涙が出ちゃったか」
明るくからかう貴広は、有里が昔から馴染んでいる貴広だった。
ピアノを弾きに来るお兄さん。
うんと年上の。
叶さん。
ずっと、ピアノを弾きに来る人。
 
そのはずなのに。
眼前にいる貴広が、違った。
この人を見ていると、悲しいような、切ないような気持ちになる。
でも、来なくなるなんて、もっと悲しい。
 
有里は、突然、悟った。
自分はこの人を好きなのだ、と。
 
 
 
ACT.2
有里と姉は、大学のカフェで会った。
広大な敷地内に幼小中高大までを抱え、そこは、ひとつの町だった。
町の中の常で、お洒落な所とそうでない所はあり、大学のレストランやカフェが前者だった。
来年、大学にそのまま進学する姉に連れられてでなければ、有里も来たことはない。
後者の代表をあげるとすれば、有里の通う中学校舎になる。
なぜか小学校よりも中学校が、いちばん子供っぽくて騒がしい、とされていた。
「お母さんは元気よ。変わらないわ。今度、有里ちゃんも、うちにいらっしゃいって」
ひどく優雅な手付きで、姉は紅茶を飲む。
メディアなどで、センスが良く高級感の溢れる大学というイメージを持たれ、事実もそうである、ここの大学生のなかに混じっても、姉は何の違和感もない。
華やかで美しい場所であればあるほど、姉は輝く。
男子学生や、教職員らしい者まで、ちらちらと姉に視線を送り、話しかけるきっかけを探しているように、見える。
母もそうだった。
そういう人だった。
姉は、母に酷似している。
「お姉ちゃんにとって、うちって、もう、あっちなんだね」
有里が言うと、少しだけ、姉は困ったような顔をした。
「お母さん、帰る気はないみたいだもの」
先刻の表情を消し、姉は、有里に問う。
「有里ちゃんは、どうして、お父さんのところに残ったの?」
純粋に不思議がっているようだった。
それは、有里にも、よくわからない。
父と母、どちらが好きで嫌いということもなかったし、姉と離れるのはいやだったのだが。
ただ、なんとなく、有里は、母についていかなかった。
母の家の「気配」が母と姉を欲したように、父の家の「気配」は父と有里を手放すまいとしたのかも、しれない。
それを、有里は、姉に説明する自信がなかった。
「お姉ちゃんがお母さんに似ていて、私がお父さんに似ているからじゃないかな」
そう、答えてみた。
納得したのかしないのか、姉は、それ以上、その問題を尋ねなかった。
「そういえば、あの人、まだ弾きにくるの? たか兄さん」
すぐに返答しないで済ませるために、有里は、ゆっくりとグレープフルーツジュースを、ストローで吸いあげた。
そして、舌を冷たくしてから、ぶっきらぼうに言った。
「うん。でも、就職したら、もう来ないって」
「え、音楽家になるんじゃないの?」
「ううん。コンピュータ会社に入るんだって」
「ふうん」
姉は、それ以上の興味を失ったようだった。
姉妹にとって、叶貴広とは、そういう存在だった。
けれど。
日常の他愛ない話を喋る姉を見ながら、有里は考える。
(実は、叶さんは、お姉ちゃんを好きだったのではないだろうか)
自分は、ほんの子供としてしか捉えられてないだろうが、姉なら、年上の男性にも、恋愛の対象にされる。
ホームパーティーで、男性の目を引きつけていたのは、母だけではなかった。
姉は、既に美しい女として、認識されていた。
自分に注がれる眼差しとは違う。
有里は、それを誰に教えてもらわなくても、知った。感じた。
貴広が、姉をそんなふうに見ていたとは思えなかったが、有里の知らないところで、秘密にされていたのかもしれない。
そうではない。
母と姉が去ってからも、貴広は、それまでと変わらず来ていた。
姉が目当てだったのではない。
いや。
父に似ている、と評されながら、まったく音楽に関心がなく、ピアノを触ったこともなかった有里と異なり、姉は、出ていくまで、あのピアノを弾いていた。
姉の指が触れたものに、貴広は触れたかったのでは、ないだろうか。
貴広が帰ったあと、弾きもしないのに、毎日、そっと鍵盤にさわってみる有里のように。
ああ。
姉を好きなら、自分は、ぜんぜん、好きになってもらえない。
有里は、驚く。
貴広に、好きになってもらいたい、と思っているらしい己の心に。
「どうしたの? 有里ちゃん」
姉が、慌てたような声を出した。
有里は、また自分は泣いてしまったのだな、と頭の隅で思った。
 
 
 
姉と別れて、ふだんより遅く帰宅すると、リビングからピアノの音色がした。
有里は、制服に鞄を持ったまま、駆けこむ。
だが、そこにいたのは、叶貴広ではなかった。
珍しく父が、リビングのピアノを弾いていた。
「ああ、有里。おかえり」
「ただいま」
ひどく久し振りに有里は、その語を音にして外に出した。
そして、父が帰ってきて会うのは初めてだと、思い至る。
「お父さんも、おかえりなさい」
「…ただいま」
父も、その言葉を紡ぐのは、ずいぶんと久し振りなのだろう。
少しの間が空いたあとに、語は出された。
有里は、沈黙していると、この家の旧い気配に呑みこまれてしまうような気がして、矢継ぎ早に語を継いだ。
「お姉ちゃんと会ってたの。元気だった。お母さんも元気だって」
「そうか」
「叶さんが、来てたよ。あのね、叶さん、コンピュータ会社に就職するんだって。もう、弾きに来ないって」
「そうか」
父は、驚きも悲しみもしなかった。
なぜ、その問いが出たのかは、有里にもわからない。
あまりに素っ気無い、父の物言いのせいだったのか。
異性を恋うことを知ったばかりの敏感な心が、頭より先に何かを関知したのか。
「お父さん、うちじゃないとこで、叶さんに会ったの?」
父は、旋律を奏でる指を止めて、有里を振り返った。
「なぜ? お父さん、ずっとアメリカにいて、会えるはず、ないじゃないか」
「でも、驚かないし、知ってるのかなって」
鍵盤に再び向きなおり、父は言った。
「予想してたからね。叶くんは、お父さんの生徒じゃないんだよ。もう、ずっと前からね」
父が弾く曲が変わった。
聞いたことがある、と有里は思った。
ふと、父が首を後ろに逸らしたので、思い出した。
貴広が、有里の知らない外国の言葉で歌っていた曲だ。
父は歌わなかった。
しかし、何かが歌っているようだった。
これが、ピアノが歌うということだろうか。
「お父さん、これ、歌がある曲?」
有里は尋ねた。
「ないよ」
簡潔に、父が答えてくれた。
では、貴広は、勝手に歌詞をつけて歌っていたのだ。
あの、祈りのような言葉を。
祈るように。
これも、なぜかは、わからなかった。
父も祈っているように、有里には感じられた。
 
 
 
ACT.3
意識していないときには、しょっちゅう来ていた感のあった貴広は、待っているときには、まったく来なかった。
(お父さんが帰ってきたからって、言ってみようか)
有里は策を練る。
だが、今まで、そんなことをしたことはなかったから、急に連絡するのも、妙だと思われるだろう。
そもそも、有里は貴広への連絡方法を、何一つ知らない。
電話番号も住所も、携帯もメールアドレスも。
何日も何日も悩んで、考えて、有里は父に訊ねてみることにした。
理由も言わず、教えてくれといったほうが、父はあっさり教えてくれるだろう。
有里は、決意を秘めて、地下室に降りていった。
帰国してからの父は、いつものように地下室にこもっている。
そういえば、なぜ、あの日に限って、リビングのピアノを弾いていたのだろう。
有里は、改めて疑問に思った。
祈っているような。
あのピアノの音色。
地下室の扉を、数度、叩いた。
いらえは、なかった。
逡巡した末、有里は、ドアのノブを握る。
そっと引いた。
鍵は、かかっていなかった。
細く、扉が開く。
いきなり耳に飛びこんでくるのは、ピアノの音。
弾いているのは、父ではなかった。
あんなに待っていたのに。
叶貴広は、リビングではなく、こんなところでピアノを弾いている。
中に入ろうとして、有里の身が固まった。
「ここ、違うよ」
貴広の手に、自分の手を重ね、有里に話しかけるのとはまったく異なった声音で、父が言う。
「俺、もう、先生の生徒じゃないですよ」
これも、有里と話すのとは違う口調と声で、貴広が言う。
「目の前で、間違って弾かれて、黙ってられるもんか」
「間違い、嫌いですか」
「嫌いだね。知ってるだろう」
「知りませんでした」
貴広の手から、父の手が離れ、また、貴広は弾きだす。
あの、祈っているような曲。
父が小さな声で、少しだけ歌った。
歌は、歌詞はない、と言っていたのに。
後を引き取るように、貴広が歌った。
 
有里が、心を奪われた声で。
何かを祈るように。
 
苦い声で、父が言った。
「どうしても、忘れられないのか」
 
音が途切れた。
歌も途切れた。
貴広は、強い目の光で、父を見た。
「先生が、それを言うんですか」
父は、何かを言おうとして口を開き、結局、何も言わずに閉じた。
 
貴広が、また、祈るような曲を弾きだした。
祈るかわりに、歌った。
 
有里は、音を立てないように扉をしめ、自室へ走った。
 
 
 
その後、有里が叶貴広に会うことは無かった。
 
 
 
それは、確かに初恋だったのだ、と何年も後になって、有里は思った。
相手へ想いを告げることもなく、ただ破れただけの、それだけにいとおしい恋。
浄化され、色彩が変わっても、忘れることだけはない。
忘れられないのか、と問うだけ愚かしい。
たぶん、父も充分に、わかっていたのだろう。
告げられない想いは消えることはなく、空気に溶ける。
何人もの何代もの。
想いが溶けて。
旧い家の気配になったのだな、と、今はもう、有里は知っている。
 
 
 
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