神代の終わり
 
神の島と呼ばれていた。
父もそのまた父も、この列島を、神の住まう地と信じてきた。
では、なぜ。
神は、何もこたえては、くださらぬのか。
亀の割れていく甲羅を見つめていた青年は、力尽きたように、膝を折った。 
この地にもとより住まう民と比べると、いくぶんか肌も髪の色も淡い、すらりとした背の男である。
 
名を、中臣鎌足という。
 
中臣とは、神と人との間をつなぐ者の意である。
その中臣家の総領である鎌足は、幼い頃から、学問をつみ、神の声を聞く術をみがいてきた。
学問は、たしかに身の内に、血肉となっている。
だが、神の声は聞こえない。
亀甲にも、なんら神さびた啓示はなく、経験と知識によって読み取る模様があるに過ぎない。
己の未熟さゆえと自戒し、研鑽してきた。
しかし、人の目に明らかな世の乱れにも、神は、何もこたえては、くれない。 
 
いくばくかの時間が流れた。
鎌足は、彫像と化したかのように、地に伏していた。
ふと、風が鎌足の頬を撫でた。
かすかに、青年は表情を動かす。
 
風は、なにものにも頓着せず、ただ、吹く。
ああ。
鎌足は嘆息した。
これが、答だ。
風は吹くだけ。
それを心地よい、冷たい、と、どう感じるのも人次第。
そう、人次第。
 
国も都も、神が造ったのではない。
人が造るのだ。
 
青年は、ゆっくりと立ちあがった。
 
 
 
玉くしげみもろの山のさな葛(かづら)さ寝ずは遂に有りかてましじ
 
優雅な旋律と、澄んだ歌声が、夜を満たしていた。
貴人が集う酒宴は、今がたけなわだった。
滞りがないことに、中臣鎌足は安堵していた。
正式の場における歌は、神への捧げ物である。
だから、歌い女の選出、管理などは、神と人を仲つ中臣家に任されている。
今夜は、よい娘たちが揃った。
唐を模して造られた池のほとりを、鎌足は、軽やかな足取りで進む。
ふと、その形のいい眉が潜められた。
女性の軽やかな笑い声。
鎌足は、その声のほうに歩を進め、目をこらす。
歌い女ではなく、貴族の子女らしい装いの娘が二人、池のほとりに寛いでいた。
一人は優しげな面立ちの、静かな女性に見えた。
もう一人は、まだ幼さが残るが、際立った美貌であるのは確かだった。
この少女が、何かを言っては、もう一人の娘を笑わせている。
しばらく、その光景に、鎌足は見入った。
なぜか視線は、美貌の少女ではなく、静かな娘のほうに行く。
妙だった。
男の目を引くのは、間違いなく少女のほうであろうに。
不意に、肩に手を置かれ、鎌足は飛びあがりそうになった。
反射的に、腰の小柄に手をやりながら振り返ると、美丈夫な若者が、にやり、と笑った。
「天が割れ地が裂けても、泰然としていそうな鎌足殿が、そんなに驚くとはな」
鎌足は、慌てて礼をとる。
帰唐僧の講義を共に受けている、王族の親王、中大兄皇子であった。
「今宵は、お楽しみいただけておりますでしょうか」
いわば学の同窓とはいえ、鎌足と皇子とは、私の口をきいたことなどはない。
「今が、いちばん楽しかった」
中大兄皇子は、からからと笑う。
「で、どっちだ」
親しい友の、他愛ない話の続きのように、皇子は言う。
「は?」
皇子の言っていることが、心底からわからず、鎌足は問いかえす。
「つくづく面白いものばかり、見るな。鎌足殿の呆けた顔とは、絵師に記録させたいわ」
ますます笑いながら、皇子は、娘たちを指す。
「どちらが好みだ」
身分が高い者の戯れをいなす、儀礼的な答など、鎌足は幾らでも持っていた。
答え方など、幾通りでもあった。
だが。
心のままを。
言わなければならない、と感じた。
なぜか。
強く、感じた。
「あの、年かさの娘のほうを」
「ほう」
中大兄皇子の目が輝いた。
「面白い男だな」
娘たちを見遣りながら、皇子は言葉を続ける。
「貴殿がいいと言った娘は、鏡一族の、王の娘だ。鏡女王。少女のほうは、その従姉妹で異母姉妹の、額田王。額田は、あの美しさと、歌詠みの才で、すでに男たちの注目の的だ。姉のほうは、早く言ってしまえば、霞んでいる」
「そう、でございますか」
皇子の語が、一気に砕けたものになっているのを確認しながら、鎌足は悔いる。
やはり、額田という少女のほうに、ひかれていると答えるべきだったのだ。
「鏡を見出す稀有な男には申し訳無いが、やるわけにはいかん。あれは、俺の妃にする女だ」
鎌足は、目を見開いた。
皇子は、喉を鳴らして笑う。
「鏡を良いという男は、何かをあの娘に見る。貴殿は、鏡に何を見た?」
まっすぐに、鎌足は、中大兄皇子の顔を見た。
先刻よりさらに。
幼年より、秘し隠してきた本心をさらさねばならない、と、何かが告げていた。
それを神と呼ぶのなら、それは神であるのだろう。
「わたくしは彼女に。良き人を見ました。わたくしが焦がれてやまない、良き人、を」
中大兄皇子は、両の口角を上げた。
「では、貴殿が良き人なのだ」
その肩に手を置き、中大兄皇子は、鎌足の目に目を合わせる。
「ふむ。俺も見つけたようだな。良き人を。今度の蹴鞠の会に来てくれ。皆に紹介する」
鎌足が拒絶するとは、微塵も思っていない口ぶりだった。
身分上の問題だけではなく、この中大兄皇子は、誰もが自分に従うことを当然としている。
それは、傲慢ではなかった。
「謹んで、うかがいます」
鎌足は、正式の拝礼をする。
もう一度、鎌足の肩をたたき、皇子は踵を返した。
その背に、鎌足は問う。
「皇子さまは、鏡さまに、何をごらんになったのですか」
首だけで振り返り、片頬だけで微笑して、中大兄皇子は言った。
「世界」
 
池の辺を、風が吹いた。
心地の良い風だった。
いつしか、楽の音も途切れ、娘たちの姿も消えている。
宴を終焉させねばならない、と、鎌足はやっと気付いた。
強張った足を動かし、地を踏みしめる。
その地は、今までとまったく違ったものに思えた。
出会ったのだ。
語を、ゆっくりと鎌足は、胸に浮かびあがらせる。
神代を終わらせ、地を造る人に。
良き人に。
そして、世界が眼前に開けた。
ゆっくりと、ゆっくりと。
青年は、歩を進めた。
 
 
 
玉櫛笥(たまくしげ)覆ふを安み明けていなば君が名はあれど我が名し惜しも
 
「内大臣(うちつおおみ)。額田をご存じなくて?」
柔らかな女性の声が、鎌足にかけられた。
振り向かずとも、それが鏡女王のものだと、彼にはわかる。
「お妃さまには、ご機嫌うるわしゅう」
鎌足が礼をとると、鏡女王はひれで口元を隠し、笑った。
「わたくしなどに、そんなに形式張ることは、ありませんわ。内大臣のほうが、お偉くてよ。あら、わたくし、気軽にお声をかけたりしては、いけないかしら」
「それこそ、私などに、形式張ることはございません」
鎌足が温和に微笑むと、それよりも暖かな笑みを、鏡女王は返す。
「額田も、困ったものですの。お歌が出来ない、と大海人さまを、放りだして、どこかに行ってしまうのですもの」
「それで、大海人さまに、泣きつかれたのですね」
「そして、額田は、内大臣に泣きついたのね」
ひそやかに、二人は微笑みあう。
美しい布にくるまれたような感触を、鎌足は覚える。
 
その言の通り、中大兄皇子は鏡女王を妃とした。
間に子を成してはいないが、安定した日々である。
 
ここまでくるために、血で血を洗った。
 
中臣鎌足は、中大兄皇子、大海人皇子らとともに、蘇我氏から王権を取り戻した。
中大兄皇子がすぐに即位することはせず、皇子らの母が、再び皇位についた。
そこから、鎌足は自分の全てをかけて、中大兄皇子王朝に向けての地固めを行った。
それは、いまだ進行中のものである。
 
それなのに。
なぜだろう。
知略ではなく血略だ、冷徹というより冷血であろう、と称され、また、それをよしとしている己が、鏡女王と対する時だけ、ひどく優しい存在であるように錯覚するのは。
 
鏡の一族というのは、鎌足ら中臣の奉じる神、蘇我や物部の信じる仏教、もちろん景教とも違った、呪いや占いの能力をもつ豪族である。
この列島独自の、あるいは鏡の地方ならではの、自然礼賛である、といってもよい。
その力は、神仏をも動かす歌を詠む、と言われている額田王に、著しく出ている、とたいていの者は見ているようだ。
だが、中大兄皇子や、鎌足のように、自身が特別な何かを有するであろう者は、鏡女王に特別を見る。
世界を。
人を。
額田王は、鎌足に言った。
―わたしより、鏡のおねえさまのほうが、ずっと美しくて、才能がおありになるわ。皇子さまは、わたしより、おねえさまを、宮廷歌人になさるべきよ。―
中大兄皇子の同母弟、大海人皇子も語った。
―鏡さまには、自分の心を差しだして、使っていただきたい、と思わせるものがあります。徳というものでしょうね。―
鏡という名にふさわしく、神と人を仲立ち、真の姿をかんがみさせるのが、鏡女王の力なら。
額田王は美しく才気に溢れ、大海人皇子は徳に満ち、中大兄皇子は世界そのもであり、鎌足は良き人なのだろう。
けれど。
そんな解釈も不要なほど、鏡女王の側にいると安らぐ己の心は、鎌足にはわからなかった。
万巻の書を読もうとも、わからないであろうことだけは、わかっていた。 
 
 
「鎌足殿」
鏡女王と別れ、執務に戻ろうとしていた鎌足を、大海人皇子が呼びとめた。
「これは、大海人さま。ただいま鏡さまに、額田さまの居場所を」
「や、そのことはいいんです」
大海人は頭を掻きながら、鎌足の語を遮った。
「額田は歌を作るのが仕事ですからね。わかってはいるんですが、つい」
「鏡さまに、甘えてみたのですね」
「いやですね、鎌足殿まで」
大海人皇子は、恥ずかしそうに視線を逸らした。
この皇子は、中大兄皇子と母を同じとしながら、ずいぶんと性格が違っていた。
いつまでも少年のように伸びやかで、屈託がない。
上下の分け隔てなく接し、鎌足に対しても、年長で功があついのだから、と丁寧な口調を崩さない。
額田王と、よく似合っていた。
「そんなことを言いたいんじゃないんですよ」
大海人皇子は、真顔になって、鎌足を見る。
「唐に出される、というのは、ほんとうなのですか」
大海人皇子がはぶいた主語を、鎌足はよく承知していた。
鎌足の第一子。
中臣家の跡取りである長男を、生きて帰れるかもわからない異国への旅に行かせていいのか、という問いだ。
「唐で学ぶことは、私にはかないませんでしたので。我が子が、その志を継いでくれるかと思うと、嬉しゅうございます。帰ってきて、皇子さまがたのお役に立てるようになれば、これ以上の望みはありません」
「鎌足殿の言は、建前のようでも、本音ですからね」
小さく、大海人皇子は息を吐く。
この皇子は、鎌足が時の帝から下げられた妃を娶るときも、真正面から問うてきたものだ。
帝、臣下、政治を抜きにして、ありていに言えば、他の男の種を宿した女をもらって、それでいいのか、と。
中大兄皇子もそうであったが、大海人皇子も、本心から対さなければ、必ず嘘を見抜く。
だから、答えた。
―喜びに偽りはありませんよ。労せずしてお子まで頂けるなど、幸せです。― 
嘘ではなかった。
本心だった。
だから、大海人皇子も不承不承、引きさがった。
鎌足は妃を愛したし、子を愛した。
何度、女を下賜されても、それは変わらなかった。
価値ある男が愛でた女である。
女は愛しい。子も愛しい。
その子が立派に育ってくれるなら、嬉しい。
 
鎌足自身が、気付いてはいなかったから。
大海人皇子も、それ以上は、なにも気付けなかった。
 
 
 
吾はもや安見児得たり皆人の得かてにすといふ安見児得たり
 
たぶん、時は思い通りに動いている。
神のいらえがないことを嘆いた若い日から、ずいぶんと過ぎ去って。
人が世界を動かし、人が都を造る。
唐を真似び、半島を目標とし、この国が出来ていく。
中臣鎌足の手で。
最近の心配事といえば、兄弟喧嘩で済まされない、中大兄皇子と大海人皇子の不和だ。
鎌足は、自分の手を見つめる。
これは、人の手。
良き人、の手。
―では、貴殿が良き人なのだ。―
鏡女王に見たものを、良き人、と答えた鎌足に告げる、凛とした若い中大兄皇子の声。
そうなのだろうか。
手を見つめながら、鎌足は惑う。
これは、良き人の手なのか。
直接、間接に、人を殺めてきた手。
王権を確立させながらも、王族でない我が一族の長い栄光を、着々と練っている手。
屋敷内においても、なんらかの政治的意図をもってのみ、妻や子を撫でる手。 
 
さわり。
風は、ただ吹くだけ。
神の意志などは、ない。
心地よい、と感じるか、冷たい、と感じるか。
それは、すべては人次第。
 
はっ、と鎌足は顔を上げた。
自分は、もう、とっくに悟っていたはずなのに。
そこに、神の意志などはない。
中大兄皇子に、大海人皇子に、本心を告げたのは、自らの意思。
彼らを選んだのは、自分自身。
 
そして。
 
鏡女王に、鏡の一族の力でもって、人を見たのではない。
ただ。
鎌足が。
自分が、彼女を。
良き人だと思ったのだ。
ただ、いいと思ったのだ。
 
鎌足は、手を握り締めた。
こんなにも時は経ち、己も老いはじめている。
すべては遅すぎるだろうか。
すべて、遅いだろうか。
 
いや。
 
自分はまだ、生きている。
そして、あのひとも生きている。
 
鎌足は、厩に走り、いちばん足の速い馬に飛び乗った。
 
 
 
「内大臣。このようなところまで!」
案内も乞わず私室に入ってきた男に、鏡女王は、悲鳴をおさえるのが、やっとのようだった。
「あなたに、求婚にきました」
にっこりと、鎌足は笑った。
鏡女王は仰天の表情を浮かべるだけで、声も出ないようだ。
「最初に、あなたを見かけたのは、もう、ずいぶんと昔です。管弦の夕べ、湖のほとりで、額田さまと語らうあなたを、良き人だと思いました。良いと思いました」
ひれを口に当てていた鏡女王は、苦しげな笑顔を見せる。
「ほんとうに、昔のことですわね。それは、内大臣が、良き人だということですわ。ご存知でしょう。わたくしは、鏡の娘。その人の真の姿を写しだす、水鏡」
「ええ、ずいぶんと惑わされてきました。なまじ、私も神を仲だつ家に生まれてしまったもので」
ぐい、と鎌足が歩を進める。
鏡女王が、これ以上、あとずされない場所まで退く。
かまわず、鎌足は歩を進める。
「いたずらに書ばかり読んできましたのでね。そんな余計なものがなけりゃ、すぐにわかったはずだ。他ならない、恋におちただけだと」
「内大臣!」
鎌足は、ぐい、と鏡女王の手首を握る。
「いけません。わたくしは」
「中大兄皇子の妃?」
「いいえ、いいえ。内大臣は、何かお間違えです。わたくしは、つまらない女です。ただ、写すだけ。額田のように美しくも、才能もありません」
「なぜ、額田さまと比べなきゃ、ならんのです」
「わたくしは、つまらない女なのです。ですから、皇子さまも、額田を」
さらに言い募ろうとする鏡女王の唇を、鎌足は己のそれで塞いだ。
息が絶えそうになって、やっと、戒めを解いた。
「私はあなたに求婚に来ました。ずっと、あなたを恋してきました。あなたを奪います」
鎌足が言い終わらないうちに、ぱしり、と乾いた音が響いた。
鎌足は呆然と、自分の頬に手をやった。
あの、静かで穏やかな女性が、男の顔を叩いた。
その事実が、信じられない。
「どうして、男の方って、こう勝手なのでしょう。わたくしは、耐えておりましたのに」
激情にかられたように、声を荒げる鏡女王を、鎌足は木偶のように見つめる。
「あなたとお言葉を交わすのは、冬の陽だまりでした。落ち着いて、お優しくて、この冷たい宮廷で、たった一つの温もりでした」
鏡女王の口調は、徐々に弱くなっていく。
「中大兄さまは、わたくしだけを愛してくださっているのではない。……今はもう、額田を。内大臣が奥さまを貰われるたびに、わたくし、思いました。わたくしを、下賜してくださったらいいのに、と。でも、美しくも才能もないわたくしなど、内大臣は、欲しがってなどくださらない。価値など、ない」
「もう一度、口を塞ぐ必要がありそうですね」
鏡女王の両手首を握り、自分の胸によせて、鎌足は彼女を抱きしめた。
「あなたを、愛しています」
「内大臣」
「ああ、どうか、そんな無粋な呼び方をしてくださいますな。名を、呼んでください」
「……鎌足さま」
鎌足は、そっと鏡女王に接吻した。
 
 
 
「愛していなかったわけでは、ない」
そう言って、中大兄皇子は、憮然とした。
「だが、覚悟はしていた。実際、よく我慢したものよ。いつ言い出すかと思っていたが」
後にこう続けて、鏡女王の鎌足への下賜を許した。
 
 
 
天智、天武と続く王朝、乱、中臣から藤原の姓をうけ、長い藤原黄金期を築く、そんな未来への礎の時代。
しかし、そのなかで生きる者は、歴史の行く末など知らない。
 
 
 
とばりを通して、暁の光が射した。
陽を避けようと、身を起こす女を、寝たまま男は抱きとる。
「ああ、離してくださいませ」
「離さない」
男は笑って言う。
「こんなに、子供っぽい、わがままな方だとは、思いませんでしたわ」
「あなたの前だから。あなたの前でだけ」
―やすみこ。―
そっと口の先に押しだすように、その名を、男は呼ぶ。
女は、名を呼ぶことを許した男に、そっと口付ける。
「吾はもややすみこ得たり」
「おかしなお歌です」
「もともとは、私の父祖が生まれ出た地に、伝わる歌。今は、心から、その境地がわかるけどね」
男は女に、また接吻してから、軽い節をつけて、その歌を歌った。
女は、ゆったりと目を閉じて、聞き入った。

吾はもや安見児得たり皆人の得かてにすといふ安見児得たり
 
 
 
戻る