みずうみ

逆井泰広(さかさいやすひろ)と正木静馬(まさきしずま)の通う学園には、一週間の秋休みがあった。
それは、初等部から大学部まで一貫した教育制度をしいている学園の、大学部の学期に合わせるためのものだった。
夏休みが終わって、ようやくと普段の調子になった九月末にもたらされるこの休みは何とも中途半端なもので、特に、内部選考も含め受験を控えた時期でもある三年生は、たいてい勉強したり大学部の学園祭に出かけたりなどして、寮や自宅でだらだらと過ごした。
だが、泰広と静馬は、例年通りに荷物をまとめて湖畔の別荘に向かった。
長い伝統を持つこの学園でも、泰広と静馬は筋金入りの学園育ちだった。
もともとは、ふたりの祖父が、この学園で友情を培い、それぞれが息子を学ばせ、その息子が、また自分たちの息子を送りこんだのである。
泰広と静馬は初等部の一年生から寮に放りこまれ、高等部三年になる今日まで、代わる代わるに寮長をつとめ、学園の外を知らずに成長してきた。
そして、その学園生活では、泰広には静馬が、静馬には泰広が、常に傍らにあった。
だが、彼らの間に単純で暖かい友情などはなかった。

東京から在来線で二時間ほどの、山の湖畔に、逆井家と正木家は共有の別荘を持っていた。
これも泰広と静馬の祖父たちが建てたものなのだが、学園に入ったときから、秋休みには湖畔の別荘で過ごすことが祖父の代からの習慣だった。
「やあ、今年も来たね」
別荘番というよりは、ただ住みついているだけといった雰囲気の一本木歩(いっぽんぎあゆむ)という青年が、いつものとおり二人を迎えてくれる。
「晩飯にはちょっと早いけどさ、俺、メシの支度するから」
部屋に荷物をいれるのも、もどかしい様子で静馬は台所に立つ。
「悪いね、静馬。冷蔵庫に材料はあるよ」
悪いとはまったく思っていないような口調で歩は言い、ソファにゆったりと身を伸ばして、歩は洋酒の瓶を傾ける。
「飲むでしょ、逆井くん」
「何度、言えば、わかんの? 俺も正木も未成年なんだって」
「あの学園に行ってて、日本国の法律なんて関係ないでしょ」
歩は、くすくす笑う。
「ほおんと、あそこはろくな人間を作らねえ学校だよな。じじいやおやじどもといい、あんたといい」
外国人のように肩をすくめ、泰広はグラスを受け取って、わざとのように、冷蔵庫まで行ってミネラルウオーターを注いだ。
優雅に笑み、歩はひとりで酒宴を始める。
「僕は好きだけどね、あそこ。人間を美しく作るでしょ? 逆井くんも正木くんも、見るたびに綺麗になってるもの。毎年、僕が、君たちに会える秋をどんなに楽しみにしてるか、君たちにはわからないだろうね」
歩もまた学園育ちで、大学部まで出ているという。
「……男が綺麗で、どうする? ……学校には、もっと面のいい奴なんて、いくらでもいるぜ」歩もまた学園育ちで、大学部まで出ているという。
「そうかな?」
歩は、含んだように笑う。
泰広とて、自分と静馬が人並み外れて容貌に優れていることぐらい知っている。
だが、泰広は、その事実を嫌悪していた。
歩は、それを充分に心得ていて、わざと口にするのだ。
「それを言ったら、歩は何年、経ってもぜんぜん変わんねえよな。俺らが、わけわっかんねえガキの頃から、おんなじだぜ」
「僕、二十二で年とるの、やめたから」
柔らかな前髪を揺らし、歩は笑う。
整っているわりには、穏やかで優しい顔立を歩はしている。
「ほんと、歩だけは、わっかんねえよ」
泰広は、グラスを干した。
それを見計らったかのように、静馬が低い声で食事の用意が整ったことを告げた。

静馬の料理の腕前はたいしたものだった。
寮には食堂があって、三食は用意されるのだが、静馬は、部屋に電気コンロを持ちこんでおり、また食堂に忍びこんだりして様々なものを作った。
それは、物心ついたときから寮にいながら、偏食の多い泰広に食べさせるためだった。
誰かが世話を焼かない限り、平気で何食でも抜く泰広は、小柄でひどく痩せていた。
静馬はそんな泰広の好みを熟知していて、また泰広も静馬の作るものなら、文句なく食べるのだった。
「美味しいね。静馬、また腕を上げたんじゃないの?」
「そんなこと言ってくれんのは歩だけだよ。逆井なんか、なんにも言ってくんねえし」
静馬は、泰広を見ずに言う。
「食ってんだろ。俺が食ってるってのが答えじゃねえかよ」
だるそうに泰広は言い、ソファに横たわる。
「食べてすぐ寝たら、牛になるよ」
歩が言う。
「なれるもんならな」
己が痩身であることを熟知している泰広は、にやりと笑った。

食事を終え、夕暮れの迫った湖の辺を泰広と静馬は散策する。
「……ボート、乗る?」
もともと低くて掠れ気味の声をさらに低くさせて、静馬は泰広に問う。
「やめろよ、まだ初日だ」
泰広が言い捨てる。
「……手、握っていい?」
静馬は、微かに身を震わせている。
「ばあか」
泰広は冷笑し、静馬に背を向けて別荘に向かった。
静馬は、慌てて、その後を追った。

静馬が拵えた夜食をつまみながら、三人は遅くまで談笑した。
無口で人見知りの激しい泰広も、歩にはよく話す。
静馬は、そうして泰広の声を聞いていること自体が嬉しいらしい。
大きくて距離感の深い、不思議な色をした瞳をじっと泰広に当てている。
歩は、泰広の話と静馬の表情とを存分に楽しんでいる風情だ。
「俺、それは上手いやり方じゃないと思ったのね」
決していい声とは言えないが、低く淡々と語る泰広の口振りは、人を魅きこんでいくものがある。
泰広は話に熱が入ると、動作が止まり、瞬きも少なくなって相手を凝視する。
釣りあがって大きな、黒とも茶とも灰色ともつかぬ瞳は、静馬の吸いこまれてしまいそうな瞳と対照的に、どんな強い光でも弾いてしまいそうな印象がある。
強固な意志に満ちた、何者にも屈せぬ眼。
泰広の眼は、そうだった。
すべてを受け入れ、吸い取ってしまいそうな静馬の眼とは真逆に。

とうに夜半も過ぎて、歩も洋酒の瓶を置いた。
カーテンを開け、空を見あげる。
「今夜も星空が綺麗だ。君たちの部屋は、いつもの、空と湖が一緒に見える所にしたから。ベッドは一つしかメイクしてないけど、いいんだよね」
唇を微笑の形に上げて、歩は言う。
静馬は戸惑いの顔を見せたが、泰広は動じる様子も見せない。
「いつものとおり。変える必要なんかねえだろ」
「そう、ずっと、いつもどおり、だったらいいのにね」
意味の取りにくいことを言いながら、歩は自室に引きあげる。
泰広と静馬も寝室に赴いた。
バスを使い、静馬がベッドに身を滑りこませてくるのを待ち兼ねたように、泰広は、その身体を抱き寄せた。
カーテンを開けたままの部屋の窓の外で、星は透明な湖に映り、空と湖面に宝石が瞬いていた。
「なんか、明るすぎるよ、カーテン閉めて」
静馬は、甘えるように言う。
「やだね」
泰広は、静馬の羽織っただけの夜着を素早く剥ぐ。
少年期特有の細く、皮膚の色が白い静馬の裸身が、星明かりのもとに輝く。
「ここ来ると、おまえって綺麗なんだって実感するわ」
胸に手を這わせながら、泰広は年齢に合わない口振りで言う。
「じゃ、普段は綺麗だって思ってくれてないの?」
静馬は唇を尖らせる。
「思うもんか」
泰広は言い切り、静馬の腿を撫で、乳首を舌で転がす。
「ん……」
静馬は喉を反らせ、切ない声を出す。
「思いきり声出していいぜ。寮じゃないんだから」
「ん、うん……」
泰広の指と唇が作りだす快楽に、静馬は我を失いはじめている。
静馬の手を導いて自分の物に触れさせ、泰広は己の欲望を昂めていく。
充分に育った欲望の証に、泰広は静馬の体勢をかえさせて、両手と膝をつかせる。
「や。やすひろぉ」
後ろから責められることを、静馬はひどく恥ずかしがる。
泰広は、知らぬふりで静馬の背骨に沿って、舌を這わせる。
「ああっ。ああん」
恥ずかしいのは、より感じるからだ。
背から降りていって、双丘の間に刺激を加えられ、耐えられず、静馬は自分から腰を突きあげる。
「やす、ひ、ろ。……はや、く。欲しい」
「おまえって、ほんと我慢がたんねえな」
呆れるような口調ながら、泰広自身も若い欲望がたぎっていたので、待ちかまえている其処へ、堅くいきりたった物を当て、進めていく。
「あっ、ああん、ああ」
泰広は、静馬の前と後ろを刺激する。
髪をふり乱し、静馬は喘ぐ。
「……っ、ああっ」
やがて、高く一声鳴き、静馬が放出の時を迎え、泰広もまた、静馬の体内に白濁した液を注いだ。

十五の頃から、静馬は泰広の情人だった。
男ばかりの寮生活だから、かえって性の目覚めは早く、泰広は悪い仲間とともに十四歳で女を知ったのだが、静馬はそれを拒んだ。
概して、静馬は泰広以外の人間を受け付けないところがあって、男でも女でも、他人と肌を合わせるなど想像もできないと言う。
泰広は、手っ取り早い欲情の処理と自らに言い聞かせ、関係を続けている。
静馬は、泰広に擦り寄るようにして、幼い寝顔を見せている。
それが可愛いと思う。
疎ましいと思う。
いったい自分たちは、どこまで互いを縛りつけなければ安心できないのか。
泰広は、それにうんざりとする。

そう、すべては、この湖で始まった。

秋。
秋休みだった。
泰広が九歳で、静馬はまだ誕生日を迎えていなかったので、八歳だった。
初等部の三年生。
ふたり、ボートで湖に漕ぎだし、ふたり、湖の真ん中に捨てた。
死体を。

その記憶だけが泰広と静馬の脳裏にある。
何を意味しているのか、実際にあったことなのか、泰広にも静馬にもわからない。
ただ記憶に竦んで縮こまっていることしか出来ない。
ふたりきりで。
「っきしょお」
泰広は声に出して、髪の毛を掻きむしり、眠っている静馬の身体に再度、手を伸ばした。
「ううん……やすひろ?」
静馬がぼんやりと目蓋を上げ、ねむたげな声を出す。
泰広は物も言わず、その唇を奪った。

鳥の声とともに目覚め、泰広は、まだぐっすり眠っている静馬を寝台に残して、食堂に行く。
「おはよう」
コーヒーを飲んでいた歩が、優雅に挨拶を投げてくる。
「うん」
だるそうに泰広は椅子に腰掛ける。
「コーヒー、飲む?」
「いらね」
答えると、泰広は歩に背を向けた。
「湖、散歩してくる」
泰広の華奢な背を見送りながら、歩は唇に不可思議な笑みを浮かべた。

髪をまさぐられる感触で、静馬は目を覚ました。
「やすひろ」
当然、隣にいるべき人物の名を呼んで、腕を伸ばす。
「悪いね。逆井くんじゃないよ」
面白がるような笑いを含んだ声に、静馬は身を起こす。
寝台に腰かけて、微笑みかけてきたのは歩だった。
「……っつ。……歩?」
「ゆうべは激しかったみたいだねえ。寝てたほうがいいよ」
歩は、再び静馬を横たわらせる。
「……逆井は?」
掛け布から目だけを出し、静馬は問う。
「湖に散歩に行くって」
「独りで?」
驚嘆した声音を発し、静馬はまた起きあがる。
「だいじょうぶ。心配することはないって。泰広が静馬を置いてどうこうするわけないよ。ほんとうに、ただの散歩」
歩は、静馬の髪にキスして立ちあがる。
「あとで、朝ごはん運んできたげるよ。ま、パンとコーヒーぐらいだけどね。ゆっくり寝といで」
チェシャ猫のように笑みだけを残して、歩は部屋を出ていった。

秋の湖は、美しかった。
だが、泰広は、心からそれを美しいと思ったことがない。
静馬とふたり、水のなかへ死体を捨てた。
その忌まわしい記憶が、湖そのものまでを忌まわしいものにさせる。
自分と静馬は、人を殺したのだろうか。
もし殺したのだとしたら、誰を殺したのだろう。
そして、なぜ、十年近くも事件として騒がれることがないのだろう。
歩は何かを知っているように見える。
けれど、彼は満足したような微笑を浮かべるばかりで、何も言わない。
泰広は、低い背をさらに屈める。
美しい湖、忌まわしい記憶。
それを確認するために、共有するために、泰広と静馬は、毎秋、ここを訪れないではいられない。

辛そうであったが、夕刻には静馬は起きて、食事を用意した。
「逆井、俺の作ったもんじゃねえと食わねえもん」
困惑したような口振りながら、それが静馬の支えだった。
静馬にとって、泰広を恋している愛しているというのは、呼吸をするのと同じくらい生きていく前提条件だった。
しかし、泰広はそうではない。
宿命的な幼馴染みだから、あの記憶があるから、泰広は静馬と居てくれる。
静馬を抱く。
静馬は、いつも泰広に捨てられる不安に怯えている。
だから、泰広に、自分が必要不可欠の存在である実感を持たせてくれる機会に固執する。
それを、はっきりと泰広に知らしめたのは歩だった。
「正木くんは、あんなにも逆井くんを好きなのに、逆井くんは、そうじゃないんだね」
酒と水のふたりだけの酒宴で、歩は泰広に言う。
グラスを持ったまま、泰広は首を傾げる。
「正木は、好きとか嫌いとかの対象じゃねえだろ。最初からそこに居たんだしな」
「それで、いつまでも傍に居るもの? 逆井くんは、ずっとそうだね。失わないと、正木くんの重みがわからない」
歩は、歌うように言った。
泰広は首を傾げる。
「ずっと?」
「そう。いつも、そう。正木くんが、必死で逆井くんを好き。逆井くんは、それを顧みない。失うまで」
「……歩、何を知ってるんだよ」
泰広は、殊更に低い声で凄む。
ゆるりグラスを置き、歩は泰広の前に立った。
繊細な指で、泰広の小さな顔を挟む。
柔らかな接吻。
静かな、まるで湖そのもののようなキス。
泰広は抵抗しなかった。
瞳を見開いたまま、キスを受ける。
触れたときと同じように唐突に唇を離し、歩は神さびた声音で宣言した。
「きみも彼も、もう来年の秋には、ここに来ないよ」
「……どうして」
「だって、ふたりともが十八歳になってしまうものね」
それ以上、どんなに泰広が尋ねても、歩は口を開かなかった。

歩と話した夜から、泰広は不機嫌になった。
静馬は、おろおろとして様子を伺うのだが、泰広は、ただその身体を弄ぶことしかしない。 
放出し、静馬の汗ばんだ胸に顔をつけ、泰広は荒い息で言う。
「静馬。感じないか? 湖が、去年までと違う」
「……何が?」
夢心地のまま、静馬は問い返す。
「何がって……。なあ、何も感じねえのかよ」
苛立たしげに肩を掴まれ、静馬は怯えた表情になる。
「ごめん。俺、よくわかんないよ。何? 泰広、どうしたの」
泰広は、違和感をうまく言葉にすることができない。
静馬は、まだ十七歳だから。
頭のなかに直接、響いてきた声に、泰広は愕然とする。
「静馬、起きろ。湖にボートに乗りにいく」
「こんな夜中に? 泰広、泰広、ほんとに、どうしたんだよ」
答えず、泰広は静馬の腕を引いた。

今夜も星が美しかった。
冴えわたる湖に、泰広と静馬はボートを漕ぎだす。
湖の真ん中。
静馬が震える。
ここに、死体を捨てた。
泰広も、いつも、ここで悪寒に震えた。
それなのに、今夜は、何かが違う。
「嘘だ。記憶が嘘なんだ! 俺たちは、死体を捨てたりなんかしてないっ」
「泰広。でも、俺たち、覚えてるじゃないか。あの重さ、気持ち悪さ、あのときの空気の感じまで」
「それが嘘なんだよ。おまえが信じこめるのは、おまえがまだ、十七歳だからだっ」
断じた泰広も、それが何を意味しているのかわからなかった。
だが、それが真実だということだけを知っている。
ふたりして顔を見合わせ、無言でボートを岸につける。
「お帰り」
岸には歩が立っていた。若々しい、端正な顔の不思議な青年。
泰広は、その大きすぎる眼で歩を睨む。
「説明してくれよ、どういうことだよっ」
静馬は、いきりたつ泰広の手を、そっと握る。
歩は、すっと手を伸ばして、湖の中央を指さす。
音もなく、無人のボートが湖のまんなかへ漕ぎだされ、その場所で静かに止まると、声を出す間もなく沈んでいった。
「想いが、湖から君たちにかえったよ」
泰広と静馬に、歩は微笑んだ。

 昔、昔。
 少年が少年に切ない恋をした。
 秋の湖で、少年は少年に告白した。想いは叶わなかった。
 少年は想いを湖に捨て、友情だけを育んだ。
 昔。
 もう一度、少年は少年に恋をした。
 やはり想いは叶わず、湖に恋を捨てた。
 秋だった。
 湖は憐れんだ。美しい少年たちを愛でていたので。
 湖は仕掛けた。
 少年が、少年にもならない幼い頃に現れたとき。
 昔、昔と昔、少年が湖に沈めたものを、最初から、少年たちに教えておいた。

「それを死体だと思いこんだのは君たちの勝手だよ。ま、想いが死んでしまったんだから、死体でも間違いではないんだろうけど」
冴える星空のもと、歩は独特の優しい声で語る。
「でも、その仕掛けは少年の間だけしかきかない。十八歳になったらね、全部、忘れてしまうんだよ。僕のことも、湖の仕掛けも。……もう諦めていたよ。でも逆井くんは、十八歳になってしまったのにここにやってきた。それは、まだ十七歳の正木くんと身体を繋いでいたせいなんだけど。その正木くんも、すぐ十八になってしまう。だから、この秋が最後のチャンスだった。その最後の最後で逆井くんは仕掛けを破った。さあ、選んで。想いは湖から君たちにかえったよ」
泰広にも静馬にも、歩の言っていることがよくはわからなかった。
けれど、何をしなければいけないかは、よくわかっていた。
今、ここで、そうしないと永遠に相手を失う。
泰広は、怯えて掬いあげるように自分を見つめる静馬の、両肩を荒々しく引きよせた。

 キス。
 慣れた唇だった。
 それなのに、初めて触れるような気が、した。
 キス、
 キス、
 キス。

泰広と静馬が唇を離すと、歩はふんわりと笑って、湖の中央をもう一度、指さした。
泰広と静馬は、自然とそちらを向く。
何もなかった。
水がさざめいている。
振り返ると、もう歩の姿はどこにもなかった。

逆井泰広と正木静馬は、それぞれ別の大学に進んだので、ほとんど生まれて初めて、離れ離れに生活することになった。
離れ離れとはいっても、静馬は、泰広の日常生活を心配して、三日に一度は食事を作りに来て、毎日のように電話してきた。
「単身赴任の夫のもとに通う妻だよね」
泰広の大学の友人、一本木歩が、くすくす笑って言う。
「縁てのは、腐れば腐るほど切れねえんだよ。誰かが言ってたな」
泰広は溜め息をつく。
「それで、と。サークルの合宿、ほんとに逆井くんとこの別荘でいいの?」
「雑魚寝でいいんだったらな。うちと正木のじじいが建てたんだけど、ガキの時分から勝手に使ってたし。俺んとこ、高校まで、秋休みてのがあったからさ、そんときは正木と、ふたりだけで遊びに行ってたんだ。っかし、うちの親も正木の親も、大胆ちゃあ大胆だよなあ。一週間も平気でガキだけに使わせとくんだから」
「そこで、逆井くんは正木くんと良からぬ遊びを覚えたと」
「そこで、てわけじゃねえけど。寮だったし」
歩が匂わせたことを否定もせずに、泰広は、にやりと笑う。
歩も、さらりと受け流す。
「楽しみだな、湖畔の宿」
「歩、好きそうだよなあ」
「と言うより、俺、湖に似合う男でしょ」
「なに言ってんだか」
笑ってから、泰広は歩の顔を見つめる。
「変だ。おまえと湖って合うわ。なんで、そんな感じすんだろ?」
「変って言わなくても」
「それにさ、なんか、すごく前から歩を知ってるような気がすんだよな。俺だけじゃなくて、正木も言ってた。それに、おまえ、こないだ俺んちのじじいに会ったじゃん? じじいも、んなようなこと言ってたんだよなあ」
「よくある顔なんでしょ、きっと」
歩は、ふんわりと笑い、もう一度、湖畔での合宿が楽しみだ、と言った。

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