放ち、封じる

この世には、放つ者と封じる者がいる。
放つ者はただ放ち、封じる者はただ封じる。

「研究者が信じられるものはなんだ」
ドア越しに、石見渚(いわみなぎさ)の冷徹な声が聞こえた。
「は。己が自分の目と耳で集めた証拠、それのみです」
かちかちになっているであろう、若い男性の声が答える。
「では、孫引きの資料など、役に立つはずもないな。それに、おまえの感想文など見たくもない。さっさと一次資料に当たって、考察、いいか、おまえがどう感じた、など関係ない、考察をして提出しろ」
「はいっ」
裏返った高い声で返答し、ドアが内側から開いた。
「おっと」
ドアのすぐ前に居て、ぶつかりそうになった五十嵐亮介(いがらしりょうすけ)に目礼をし、若い男は走りさった。
「お、まだ学部生じゃないか。卒論ゼミ生か? 手厳しいな」
「大学は、遊びに来るところではない」
渚は言って、ノーフレームの眼鏡を外した。
真夏にも、細身に纏うスーツとネクタイのスタイルを崩さず、冷たい印象を与える男だった。
まだ29歳と大学の専任教員にしては若すぎるほど若く、美貌のわりに、女子学生が群れてこないのは、この冷たい印象に違わない言動のせいだろう。
いっそ鈍重なまでにひたむきで、体力のある男子学生しか、渚にはついていけない。
逆に美貌が災いして、女はなかなか渚の良さに気付けない。
「近々、調査に行くが、おまえもどうだ?」
亮介は、前置きもなく用件に入る。
「公費か」
「自前に決まってら」
渚は、唇の両角を上げた。
笑うと、冷たい雰囲気が一気に柔らかくなった。
この国の文系への冷遇は、冗談として笑うしかない程だ。
学問自体への助成が弱いところに始まって、官立の理系から始まり、私立大学の文学部など、最後の最後にしか回ってこない。
渚も亮介も、私立である清星大学の出身で、そのままここ清星で教鞭を執っている。
助成金、補助金の出願資格があるだけお情けを頂いている、というものだ。
しかし、20代で専任の渚はもちろん、32歳で同じく専任講師の亮介はあり得ないほど恵まれている。
どんなに業績をあげようとも。
たいていは、職自体が無い。
渚と亮介が職を得られたのは、目覚しい業績を挙げているということはもちろんあるが、亮介は前学長の息子であり、渚は現学長の秘蔵っ子であることが大きい。
そして、「一族」であること。
そうでなければ、この年齢で、ここにはいない。
渚は古典の文献学者で、亮介は民俗学を専攻している。
考古学に対して、祭や伝説など無形の文化を研究する学問である。
柳田國男が確立させたとして知られている。
亮介は、文献の渚をよく調査に誘う。
渚の実力、分析力と構成力を尊敬している。
そして、別の意味合いもあった。
それが癖の、親指で唇に触れる仕草をしてから、渚は言った。
「小学校が休みに入ってからでもいいか」
「21日からだったか。ああ、もともと、それくらい以降のつもりだった」
「汀(みぎわ)を連れていきたい」
「はん。ミーが必要な感触があるのか」
「いや。夏休みの日記に書くことがないと困るから、どこかに連れていけ、とさんざんせがまれていた」
渚は、学内ではついぞ見せることのない、ふわり、とした笑顔になった。
「しょうがねえなあ」
その一言で、亮介は汀同行を承認した。

渚と汀が並んでいるのを見ると、亮介はいつも、ランドセルを形はそのままで小さく作りかえたものを思い出す。
きっちり測って縮小したみたいに、汀は渚にそっくりだ。
「よ。ミー。でかくなったな」
髪質まで渚とそっくり同じの、汀の頭をぐりぐりと撫でまわす。
「前の身体検査からね、10センチ、背が伸びたんだよ」
汀は弾んだ声をあげる。
10歳の男の子にとって、身体が大きくなっていくことは、何よりも誇らしく嬉しいことなのだろう。
生まれた瞬間から大きな赤ちゃんで、現在は190に届かんとする身長を持つ亮介には、あまり実感がないが。
「バスか」
渚が、短く亮介に問う。
T空港を降り立って、周囲には田畑が広がっている。
幾つも見てきた地方空港の景色に外れない。
こうした場所では、移動手段はまずはバスである。
「バスも行ってない。レンタカーを借りるつもり…」
亮介の、その言葉を待っていたかのように、クラクションが高く鳴った。
レンタカーを示す「わ」ナンバーの乗用車が、エントランスの前で止まった。
「ひどいなあ。俺を置いてけぼりなんて」
いかにも今時の、それもかなり格好いい部類に属する若者が、運転席から顔を出す。
「なんでっ。なんで、まさやが居るのっ」
叫んで、汀は渚の後ろに隠れてしまった。
「よ。ミー。でかくなったなあ。助手席に乗れよ」
「ぜっったいっ、やだっ」
瞬時に拒絶し、汀は渚の服の裾を強く握る。
「呼んでないのにな」
渚が呟いた。
「ああ。正也、呼んでないのに、来やがって」
亮介が嘆息した。
「呼ばれてるな」
渚と、亮介の声が合った。

石見渚。
石見汀。
五十嵐亮介。
そして、丹羽正也。
彼らは、封じる者の一族であった。

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