向島心中
 
 時は江戸。刻は丑三つどき。
 場所は隅田の河川敷。
 そこに町人姿の若者の死体が転がっていた。
 北町同心江坂俊隆は、芸妓の誂えをしたやはり死体を若者の死体の隣に並べる。
 死体同士の手を握り合わせる江坂。
 と、はっとしたように、江坂は振り返った。
 華奢な感じの町人らしい青年が、酔った足取りで土手を歩いてくる。
 江坂は手灯を上げて、彼をじっと見つめた。
 
 
 さて。  ここは、江戸一の繁華街である。
 今、大評判の人形浄瑠璃一座、大元座は色とりどりの幟に飾られ、興行の真っ最中であった。
 ひときわ目立つ幟は、当たり狂言『向島心中』。
 それを目指して、全速力で走ってくる侍があった。
 北町奉行、野田康太郎である。
 そんなお偉い御役目にはとても見えぬ、身も蓋もない慌てぶりであった。
 大元座自慢の語りは、藤太夫(ふじたゆう)。
 そして、人形遣いはこれまた名手の葵である。
 葵はまだ若く華奢な感じの青年だが、人形に命を吹きこむ技は絶品だった。
 生きているかのように情感に溢れ、女の人形が泣き崩れる。
 藤太夫の語りが冴える。
「親兄弟が暮らしがために、身を苦界に落として早、いくとせ。
 蝶よ花よとうたわれても、悲しいわいなあ、辛いわいなあ。
 定吉つあん」
 男の人形が、女の人形の手をとった。
 男人形の語りが入る。
「好いたおなごを守れぬ我が身が、悲しいわいなあ。辛いわいなあ。
 明烏」
 藤太夫の語りによる、女の人形の台詞。
「どうぞ、お美津と、呼んでおくんなまし」
 男人形の語り。
「おうよ、お美津」
 ひしと抱き合う人形同士。
 そして、響く浄瑠璃節。
「(唄)花の都をふり捨てて、極楽浄土の蓮の花、
    この世で添わぬ我が身とて、
    共に生まれて、咲こうやなあ」
 啜り泣きが洩れる会場で、野田は号泣していた。
 
「さあさ、今日も良かったよ」
 小屋主、大元余弦が皆をねぎらう。
 人形を片付ける葵が黙って頭を下げ、藤太夫は茶を啜る手を止めて微笑する。
 そこに、野田が涙を拭き拭き入ってきた。
「素晴らしかったぞ。葵の操りも、藤太夫の語りも。
 わしゃ、もう、泣けて泣けて」
 藤太夫と葵は、深ぶかと礼をした。
「恐れ入りまする。お奉行さま」
 藤太夫が、普通に喋っても良い声で答える。
「お奉行さま、また、このような所にお一人でおいでなされまして、
 よろしゅうございますのか」
 大元が、野田に茶をすすめながらも、心配そうに問う。
 野田は悠々と茶を飲む。
「なに、奉行所の者は皆、わしの人形操り好きはよく心得ておる。
 それにの、これはお役目の一つじゃ。風紀を取り締まる、の」
 この時代、幕府から世話物と言われる現代劇を演じることは禁じられていた。
 幕府を風刺するようなものや、衝撃的な事件を題材にしたものは、風俗を乱すというのである
 しかし、そこは脚本書きも承知していて、時代物に置き換えて話を作るのである。
「こたびの『向島心中』も、よい時代物じゃのう」
 にやり、と笑いながら、野田は言う。
「茜の筆も冴えておる。して、茜はどうした」
  「はあ。どこをふらついておりますやら。
 葵と違って落ち着きませぬわ」
 大元は嘆息する。藤太夫が付け加える。
「同じ顔で、ようも、ああ中味が違いまする」
 苦笑めいたものが座にもれ、野田は葵を見遣るが、蒼は黙々と片付けを続けている。
 しばらく談笑していると、強面の武士が入ってきた。
「御免。こちらにお奉行さまが……。……やはり、いらっしゃいましたな」
「江坂。そちも操りを見にきたか」
 咎めるような目つきの江坂に構わず、野田はのんびりと茶を啜っている。
 江坂は心持ち声を荒げる。
「拙者はそのようなもの、見ませぬ。お裁きの刻限でございますぞ」
「やれやれ。無粋じゃのう」
 野田は、未練そうに茶を置いた。
 さらに語を継ごうとした江坂の視線が、葵に止まって、言葉も止まった。
 葵も視線に気付き、目礼する。
 野田は、不審そうに江坂と葵を見比べていた。
 
 
 野田は江坂と並んで、道を行く。
「だから、私とて、ただの人形芝居好みではないのだ。
 世話物は幕府のご法度、注意深く監視をせねば」
 野田はとうとうと説く。
「して、今回の狂言(題目)は、よろしゅうございましたか」
「おお、太夫の語りも、あぶらがのりきって。葵の操りが、またのう。
 聞かせどころが泣けるのなんの」
 江坂の冷たい視線に気付き、野田は咳払いをする。
  「いやその、『向島心中』というのじゃがの、向島芸者であった明夢と、
 呉服屋の手代、浅吉の先だっての心中を下敷きにしているという噂で、
 それを確かめて、私が指導を」
 野田は、もっともらしく言う。江坂は真剣な顔である。
「あれは、ふた月前でございましたな」
「そうじゃ。座付作家の茜は筆が早くて……、いや、世話物じゃないぞ。
 あの狂言は。
 それに、あれじゃ。あの心中は、心中でないと私は考えておる」
 江坂は、はっとしたように顔を、野田に向ける。
「そう申されますと」
「明夢の刀傷じゃ。あれが気になる」
「それは浅吉が」
「しかし、呉服屋の手代が、ああも見事に切れるかのう。
 自害にせよ、あの喉笛切るも鮮やか過ぎる。
 だいたい、あの二人には死ぬまでの切羽詰ったものはなかった由」
「では、お奉行さま」
「うむ。詮議のし直しを考えておる」
 野田が重々しく断じると、江坂は黙った。
 口調を変え、野田は続ける。
「殺しとなれば、狂言が台無しだと茜が嘆くかもしれんがの。
 ああ、茜は知らんかったの。
 ほら、先ほど、そちがじろじろ見ておった、男前の葵の兄じゃ」
「別に、じろじろ見てなど」
「おお、おお。そちは無類の女好き、衆道の趣味がないことはわかっておる。
 しかし、葵、覆面で顔を隠すは勿体無いほどであろ。
 はて、忍の流れで、茜ともども、小屋主の大元が幼少の頃より養育したという話じゃが」
 さらに話続ける野田に、曖昧に相槌を打ちながら、江坂は考えこむ表情をしていた。
 
 
 夜闇の小路を、葵は俯きかげんに歩いていた。
 不意に、面を隠した男に斬りかかられる。
 咄嗟のことで、葵の右肩から血が一筋、流れる。
 再び襲われ、葵はとんぼを切って、太刀を避けた。
 何かに気付いた人々が、駆けつける足音と声がする。
 面を隠した男は、慌てて退いた。
 その姿を、葵はじっと見つめていた。
 
 
 大元座の楽屋である。
 大元、藤太夫、葵、そして珍しく茜がいた。
 野田が、息せき切って入ってきた。
「お奉行さま、また」
 大元の言葉を手で制し、野田は葵に向かう。
「葵、災難であったの」
「いえ。命に別状も、操りに差し支える傷でもありませぬ故」
 葵に代わって、大元が言う。
「それは良かった。
 して、茜。誰かに恨まれる覚えは」
 茜は、おおげさに、ずっこけてみせた。
「いきなりおいらですかい!」
 野田は頷く。
「決まっておる。葵は人に恨まれれるような者ではない。
 ふたつ子と知らぬ者が、茜と間違えて、葵を襲ったのじゃわ」
「名裁きでございますなあ」
 大元が手を叩き、藤太夫が優雅に笑う。
「なんでえ。みんな、ひでえや、ひでえや。
 悪いことは全部、おいらのせいなんだからな」
 ふてくされたような茜を宥めるように、葵が口を開いた。
「あるいは『向島心中』に仇なそうという者では。
 台本書きの茜、操りの俺、どちらでも良いと狙ったのでは」
 感心したふうの一同のおもむきに、茜はやはり不満そうである。
「なんで、葵が言うと、皆、納得するかね」
 野田がきっぱりと言った。
「日頃の行いじゃ」
 茜は、情けない声を出す。
「野田さまあ。そりゃないっすよ。
 おいらだって、ただ、ふらふらしてるわけじゃねえんですって。
 常に狂言のことを考え、目を開き、耳をそばたて」
 茜は、ぐいと身を乗り出す。
「ふた月前の心中だって、飲んで酔い覚ましに歩いた河原に、
 翌朝、心中の躯が転がってたというじゃないですかい。
 こりゃもう、時刻からすりゃ、もちょい近けりゃ、明夢浅吉の睦言まで
 聞けたと思うと、もう、筆にぱぱぱあっと神様が」
「それじゃ」
 野田のいきなりの言に、皆は驚いたように奉行の顔を見る。
「実はの、明夢浅吉は殺しの疑いありと、わしゃ見ておる」
 葵が、野田をまっすぐに見て言う。
「では、明夢浅吉殺しの下手人が、茜に見られたと思って」
 藤太夫が後を引き取った。
「それを、ふたつ子と知らず。同じ顔の」
「葵が襲われたのでございますなあ」
 大元が締めた。
 野田は、腕を組んだ。
「してみると、下手人は、葵は知っておるが、茜を知らん者になるの」
 葵が、決意したように進み出た。
「今まで言うを控えておりましたが、俺を狙ったのは、お奉行さまを探しにみえた……」
「江坂か。同心の」
「その方の身のこなしに見えました。俺は夜目がききます。
 人形を操る俺、人の動きを見るは第二の本能、その俺の目が確かなら」
 茜が、憤然と言う。
「葵の目は確かに決まってら! 許せねえ。
 明夢浅吉を殺したのも。
 それより何より、葵を襲ったってのが!」
 野田は、茜の肩に手を置いた。
「まあ、落ち着け、茜。
 江坂は女癖が悪くての。思い当たる節はある。
 ちと相談があるのじゃが」
 一同は額を寄せ合った。
 
 
 大元座の客席に、野田と江坂が座っていた。
「お奉行さま、拙者、人形操りはとんと」
 渋る江坂を、野田はいなす。
「よいではないか。ほれ、見ろ」
 語りは花形藤太夫。
 葵の操るその女の人形が、侍の人形に斬られた。
「えい、妾が己のものにならぬが、それほどに口惜しいか。
 口惜しいは、我が命。
 ああ、定吉つあん。
 男の人形が、侍人形に斬られる。
 そのまま、女の人形に被さるように倒れる。
 藤太夫の美声が響く。
「(唄)非業で果てるこの命、せめて来世の花となり、
    同じ蓮(はちす)に咲こうやなあ。
    極楽浄土に咲こうやなあ」
「そんな! こんな馬鹿な!」
 いつのまにか、江坂は立ちあがっていた。
 野田は、ゆるりとその手を取る。
「座れ、江坂。他の客の邪魔じゃ。
 ……語るにおちたな」
 江坂は、がっくりと膝を折った。
 
 
 大元座の楽屋には、いつもの面々が揃っていた。
 いつもの、に野田も入ってしまっている。
「そうですかい。やはり岡惚れの恨みで」
 茜が、息を吐く。
「うむ。仕事は出来る男であったのじゃがの。
 恐ろしいのう。人が人を恋うるというのは」
「あ、その台詞、いい。お奉行さま、頂戴します」
「うむ。私も狂言が書けるかの。これ、茜。  それは私が使おう。  おお、いいのう。名作が出来そうじゃ」
 ひとり世界に入っていく野田に、茜は困り、大元、藤太夫、葵はひそやかに笑った。
 
 
 
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