笑う男
ACT 1
電話を切った金髪碧眼の男が、黒髪の青年を振りかえった。
「アイリ、俺んとこのガキが来るからさ、迎えに行ってくれないか」
「大佐には、お子様がいらっしゃったのですか?」
礼を失しない程度に驚きを表しながら、アイリは問い返す。
「あれえ、知らねえの? けっこう有名なんだけどな」
「寡聞にして存知あげませんでした」
「じゃ、この機会に知っといてくれよ」
「了解しました。どちらに伺えばいいのですか?」
「オルスロー空港に、標準時11:35に着くってさ」
「お子様の特徴は?」
金髪碧眼のキース・エイボン大佐は、にやりと笑った。
「そこの一キロ四方で、いっちばんの男前が奴だから。ま、俺ほどではないけど」
それ以上の手掛かりは与えられず、アイリは空港に向かった。
ミイシ・アイリは、ガイア国軍情報部の中尉である。
父も母も軍人だったが早くに戦死し、アイリは十歳で幼年学校に入った。
卒業後、情報戦の才能を買われて情報部に配属された。
現在は、ガイアにとって第一等警戒国であるユーア・コラルカ対策のために、その属国リショウに駐在するエイボン大佐の補佐官である。
エイボン大佐は次期情報部司令と目される人物であり、事実上の実戦指揮官であったから、アイリも精鋭の一人と数えられていることになる。
だが、上層部の評価など、アイリにはどうでも良かった。
与えられた仕事をこなすこと。
そうして、毎日を過ごすこと。
それ以上も以下もなかった。
ざわめきが一際、大きくなった。
便が着いたらしい。
到着ロビーで、アイリは目を凝らす。
金髪碧眼の男の子。たぶん、十歳を越してはいないだろう。
大佐の息子として、アイリがイメージしたのはそんな少年だった。
視線を感じて、アイリはその方向を探る。
目を当てた先には、長身の、スーツを着た男がいた。
白金の髪をして、それを左眼に垂らしている。
薄い銀フレームの眼鏡のなかの眼は紫水晶の色だ。
アイリが見てとった分、相手もアイリを観察していたようだ。
眼鏡を外して、アイリに笑う。
距離もあったし、周囲に人の波が溢れていたが、それが自分に向けられた笑顔だとアイリにはわかった。
鮮やかな、一瞬で心をほぐしてしまうような笑顔。
彼は、人ごみをかきわけて、アイリのところへ来ようとした。
その動きがスローモーションのように、ゆっくりと目に映る。
アナウンスや、話し声や、音がすべて消えた。
まわりは灰色の石像のようになってしまい、彼だけが色彩を持って動いている。
アイリの前に立つと、彼はさらに笑みを深くして、静かな低めの声で言う。
「あなたですね」
「は?」
アイリが間の抜けた声を出すと、彼は子供のように、小首を傾げた。
「違いませんよね? オレはあなたを探していたんです」
「私を探していたんですか? あなたが?」
アイリは、問い返すことしかできない。
「はい。あなたでしょ? 大佐が迎えに寄越してくれた人って」
「確かに、私はエイボン大佐に言われて……」
上司の名が出て、やっとアイリの思考回路が動き出す。
「え、ええ? じゃ、じゃあ、あなたが大佐のお子様なんですか?」
彼は渋い顔をした。
「あの人、また何か変な言い方をしましたね。大佐がなんて言ったかは知りませんが、しばらくそちらにお世話になります。ミラ・カナンです」
男が名乗ったとき、アイリは、このひとだ、と思った。
何がこのひとなのかは、自分でもわからなかったが、ただ、このひとだ、と思ったのだ。
「嘘は言ってないだろ。おまえ、俺んとこのガキじゃねえか」
大佐は椅子にふんぞり返って、楽しそうに笑っている。
「そう言うと、知らない人が小さな子供だと思うだろ! と、思うじゃないですか」
情報部のオフィスということを考慮したのか、カナンは語尾を言いなおす。
「精神年齢は想像通りだろうよ。な、アイリ」
話をふられて、アイリは苦笑するのみだ。
「だから、初対面の相手に変な印象を与えることを、言わないで、くださいって」
カナンは、アイリを振りかえって、にっこりと笑う。
「オレ、このひと、気に入ったんですから」
「へえ。見る目があるじゃねえか。アイリは、ここの人気者でなあ。トラストなんかも、やたら可愛がってて……」
トラストの名を聞いた途端、カナンは反射的に数歩をさがった。
大佐は声を立てて笑う。
「おまえ、まだトラストが苦手なのかよ。笑えるなあ」
「苦手じゃありません。合わないだけです」
カナンは、可聴音ぎりぎりの声音で言う。
「それを、世の中では苦手ってんじゃねえのか」
「合わないんです。中央情報局の斬りこみ隊長と、軍情報部が合わないのは、当たり前じゃないですか!」
業務内容が似ているからこそ、国軍情報部と中央情報局は創設以来の犬猿の仲である。アミ・トラストは、中央情報局のリショウ駐在員の長である。
「おまえらのって個人的な絡みじゃねえか。近親憎悪だろ」
カナンは、これ以上ないというくらい苦い顔をする。
「面白えー。これから、トラストと麻雀すんだわ。おまえも来いよ」
「嫌です。即刻、本国に帰ります」
カナンは即答する。
「まーな、仕事もさせずに返したんじゃ、足代の無駄だしな。いいや、連れてくのは、やめといてやるよ」
エイボン大佐は、立ちあがって軍服の上着を肩に引っ掛ける。
まだ笑いながら、アイリに向かって語を発する。
「じゃ、俺は遊んでくるから。カナンにメインコンピュータの調整をやらせとけ」
「オレ、休暇じゃなかったのかよ!」
カナンが叫ぶ。場所柄も忘れて。
「休暇だから、一緒に遊んでやろうと思ったのに、嫌だと言ったのはおまえじゃねえか。おとなしくコンピュータに遊んでもらってろ」
「……最初から、そのつもりだったろ。変だよ。中央と仲のいい軍情なんて」
笑い声だけを残して、大佐はオフィスを出ていった。
「どうします? ご案内していいですか?」
アイリが笑いをかみ殺しながら、カナンに問う。
「してください」
カナンは、仏頂面で答えた。
「美しくないシステム、組んでるな」
眼鏡を掛け、コンピュータの前に座ったカナンは、口とは裏腹に、気に入りの玩具を見つけたこどもの顔になった。
「最初に組んだシステムを、修正、修正して、使ってますから」
「軽くなるように、いじりますね」
口笛でも吹きそうな様子である。
「カナンさんは、技術官でらっしゃるんですか?」
アイリの問いに、カナンはびっくりしたような顔で振り向いた。
「オレのこと、ほんとうに聞いたことがありませんか?」
眼鏡を外して前髪を払い、隠している左眼をさらす。
それは、金色だった。
猫科の生き物のような。
「……!! 邪眼のミラ!」
ガイア軍情報部の切り札。
その眼に睨まれた者は、決して生きては戻れないという、邪眼を持つ射撃の名手。
エイボン大佐がその男を育てたと、確かにアイリも知っていた。
名前を聞いてなお、なぜ、それらの情報と目前の男とが結びつかなかったのか、今となっては不思議でさえある。
アイリは頬を紅潮させた。ついで、青くなった。
「失礼しました。ご無礼をお許し下さい」
慌てて敬礼する。カナンの階級は少佐だ。
カナンは、屈託なく笑った。
「失礼なんかじゃないですよ。嬉しいな。これからも、階級なんかで呼ばないでくださいね」
言い、カナンは前髪を直して眼鏡を掛けなおした。
「オレ、こっちは趣味みたいなものですけど、そこらの技術官より上手くやりますから」
カナンの笑みは、はにかんだようなものになった。
アイリは、微笑を返した。
数時間後。
アイリが入ると、カナンは両手を挙げて、大きくのびをしていた。
「お疲れになったでしょう」
「うーん、そうでもないです」
のびの姿勢のまま、カナンはアイリを見て笑う。
「面倒なんで、新しいシステムを組んで、データを移しかえときました。前よりずっと軽くなってるはずです」
アイリはキーを操作してみる。
「ほんとうですね。こんな短時間でお見事です」
「つい、本気になっちゃいました」
やっぱり、はにかんだように笑う男は、アイリのなかで邪眼というイメージと一致してこない。
「大佐から伝言です。適当なところで手を打って家に帰ってろ、飯は食わしてやる、だそうです」
「ずいぶん直接話法の伝言法ですね」
「復唱させられましたので」
アイリは、悪戯っぽい表情を浮かべる。
「オレ、あなたと一緒に食事をするほうがいいな」
カナンは眼鏡を外して、下から掬いあげるようにアイリを見る。
「大佐がお待ちでは?」
「どうせ、奴んとこで勝負をしてんでしょ。帰ってくるかどうかだって怪しいものです。帰ってきたら、そのときは食後の食事でいいですから」
「わかりました」
「やった。食事に誘う、成功ですね」
「子守りしててくれ、というのも伝言を承ってますので」
わざと真面目な顔をするアイリに、カナンは不貞腐れてみせた。
ACT2
外交官待遇の、情報部のトップが住む宿舎にしては質素で小ぢんまりしていたが、独身男のねぐらにして大げさな家である。
戻ってきたエイボン大佐は、どの部屋も真っ暗であることに首を傾げた。
「カナン、いねえのか。っと、わっ」
リビングの床に直接、膝を抱えて座っている男に、大佐は転びそうになった。
「危ねえだろ。踏むぞ。電気くらいつけろ」
ふいに明るくなった光線に、プラチナブロンドが輝く。
大佐を見あげる紫の瞳が、泣き出しそうなこどものように揺れている。
「どうしたんだよ? 悪いもんでも食ったか?」
「メシは美味かった」
「なんだ、食ったのか。待ってろってったのに」
「ミイシ・アイリと食事した」
「へえ。よく、アイリが付き合ってくれたな」
「キースが、子守りしてろって言ったから」
「お。指令を実行したか。アイリに時間外手当を出さないと」
笑いを含んだ調子で言い、金髪の男は、カナンの前にしゃがみこむ。
カナンの瞳は、まだ揺らめいている。
「ごめんなさい」
幼子のような、カナンの口調。
「はあ? おまえ、何したんだ?」
「オレが怪我すると、キースのほうが痛いんだって、よくオレ、叱られたよね。それ、よく、わかんなかったけど、今日、わかった」
「何があったんだよ?」
大佐は、カナンの瞳を覗く。
「痛いんだ。自分が怪我するより、ずっと。痛くて、でも、何も出来ない」
もう問うことはせず、金髪碧眼の男は、黙ってカナンの頭を撫でる。
「オレ、怪我ばっかりしてたから。キース、痛かったよね。ごめんなさい」
「ば〜か。わかるのが遅いっての」
大佐は、意思を持ってカナンの髪を引っ張った。
「あのな、痛いだけじゃねえって。おまえが嬉しかったり、楽しかったりすると、俺は、やっぱり三倍くらい嬉しくて楽しいんだ。おまえがいるから、自分ひとりより幸せになれるんだよ。……おまえは違うのか? そのひとが笑ってくれると、幸せになれるんじゃねえのか?」
カナンの紫の右眼が濡れていた。
「笑ってくれない。たぶん、もう二度と笑ってくれない」
膝の間に顔を落とす。
「あのなあ、いつ、そんなに諦めがよくなれって、教えたよ? 今までだって、駄目だってとこ、何度も逆転したろ? どうせ失うつもりなら、全身全霊をかけて、あがけ」
大佐の言葉に反射的に顔を起こし、逡巡の後、カナンは小さく頷いた。
アイリの嘔吐は止まらなかった。
こみあげてくるのは苦い味と、自嘲の笑い。
悪いのは自分だ。
カナンではない。
自分なのだ。
共に摂った食事は美味だった。
楽しいとすら感じた。
運転席に座ってカナンを助手席に乗せ、大佐の宿舎まで送ろうとしたときには、もう少し一緒にいたいと思っていた。
―オレ、もっと、あなたと、いたいです。
カナンも言った。
そして。
カナンはアイリに口付けた。
反射的に拒絶して、アイリはカナンの頬を張った。
次の瞬間。
アイリの肩が激痛を訴えた。
何が起こったのか、アイリにはわからなかった。
カナンも呆然としている。
その右手にある消音器つきの銃口からは硫黄の匂いがした。
訓練された情報員として、考える間もなかったのだろう。
自分に危害をなす者を排斥する、第二の本能が働いたのかもしれない。
カナンはアイリを撃った。
「あ……。あの、だいじょうぶ、大丈夫ですかっ」
「貫通してますから、大丈夫です」
アイリも、実戦向きの神経だけを働かせた。
止血をし、カナンに口許だけで笑う。
「すみません。運転はできそうにないので、タクシーで帰ってもらえますか。
「私も、そうします」
「ごめ……、ごめんなさいっ。オレ、あなたを傷つけるつもりなんて、なかったんです!」
「わかってます。すみません。降りてください」
それ以上、言葉を交わさなかった。
縋りつくようなカナンの視線を振りはらうようにして、アイリは車を拾った。
アイリの嘔吐は止まらない。
キス。
あんなものは、挨拶に過ぎないだろうに。
過剰に反応して。
邪眼のミラの頬を打つなんて。
命を取られなかっただけ、マシというものだ。
ただ、最初にカナンの笑顔を見たときの、あの感覚が痛かった。
窓の外は、雨だった。
すっかり身支度をおえた大佐は、床で毛布にくるまっている長身を、軽く蹴る。
「おい、起きろよ。オフィスに行くから」
「システムの調整は済んだ」
「他にも、やることは幾らでもある」
「オレ、確か、休暇で来てるんだと思ったけど」
「だから、オフィスで遊んでやる」
「いらない」
カナンは寝返りを打って、大佐から離れる。
「じゃ、せめてベッドに行け」
「ここでいい」
「身体が丈夫なだけが取柄のおまえだ、風邪を引くたあ思わねえけど、鬱陶しいんだよ!」
「出掛けるんだから、別にいいでしょ」
「ったく、このガキゃあ」
大佐が、いくらかの本気で毛布を剥がそうとしたとき、クラクションが鳴った。
「お、迎えだ。カナン、一緒に来なくていいのか? アイリだぜ」
バネ仕掛けのように、カナンが起きあがった。
「うそだ……。運転なんて出来るはず……」
「いい加減、何があったか白状しろ」
カナンは大佐を見上げた。
「オレも後から行きます。だから、先に行ってください」
「ふう、ん」
大佐はカナンの顔をしばし見つめ、髪をくしゃくしゃとした。
「てめえの責任はてめえでとれよ」
それだけを言った。
「おい、アイリ! 大丈夫なのか」
助手席に乗り込んでから、アイリの軍服の下にのぞく肩の包帯を見咎め、エイボン大佐は声をあげる。
「見苦しくて申し訳ありません。業務に支障は何もありませんから」
アイリは前を向いたまま、生真面目に言う。
金髪碧眼の男は窓を細く開け、煙草に火を点じた。
「悪い」
「何がです?」
「全部だ。迎えに来させたのも、煙草を吸うのも、カナンのことも」
ちらり、とアイリは隣の男を見た。
「カナン少佐のことですか?」
「ああ。アイリの望むように、あいつを処分する」
「処分?」
バックミラー越しに、アイリは驚愕の表情を送る。
「俺はカナンが可愛いけど、アイリは俺の部下だ。必要なら、俺がこの手で、カナンを殺してやる」
大佐は平常の口調で言い、紫煙を燻らせる。
アイリは、柔和な笑みを浮かべた。
「私には、仰る意味がわかりません。カナンさんと私の間に何かあったわけではありません。私が相手では、カナンさんはご不満だったかもしれませんが」
大佐は携帯用の灰皿を出し、煙草をきつく押しつけた。
「俺では、頼りにならないか?」
自分に当てられる真剣な空色の瞳に、アイリは小首を傾げた。
「ほんとうに、何もないだけです。ご報告するようなことは、何も」
「そうか」
シートにぐったりと凭れ、大佐は目を閉じた。
「アイリが、そう言うんじゃな。着いたら、起こしてくれ」
「承知しました」
一度、閉じた瞳を、大佐は軽く開く。
「あまり、自分ひとりで抱えてくれるなよ」
「それほど、自己過信はしていません」
小さく息をつき、今度こそ、大佐は目と口を閉じてしまった。
オフィスにはいつも通りの喧騒が満ちていて、大佐もアイリも、日々の業務に忙殺される。
「動いた? 回線を開いておく。常時、連絡を入れろ」
「司令に許可をとってくれ」
「Sポイントからの情報が滞っている。強化しろ」
ガイア軍情報部にとって、ここが最前線であるというのは間違っていない。
「アイリ、昼飯、食ってこいよ」
午後もだいぶん過ぎた頃、上司が部下を促した。
「大佐こそ、まだ召し上がってらっしゃいませんよね」
「俺は、もう少ししたら、美人の差し入れがあるから」
にやり、と笑う金髪の男に、アイリは苦笑した。
席を外せということらしい。
「わかりました。行ってきます」
廊下を歩いていくと、長身の男の視線とぶつかった。
白金の髪。
アイリは、これまでの訓練の成果をすべてぶつけて、平静な表情を保つ。
男は、笑った。
幸せそうに。
輝くように。
空港で出会ったときと、同じ笑顔。
アイリは眉根を寄せて、唇を噛む。
我に返ったように、カナンは困惑した表情になった。
「あなたに、どんな顔で会っていいか、わからなくて。とにかく、謝ろうと思ってたんです。でも、あなたの姿を見たら、嬉しくて」
「謝っていただく必要はないです」
アイリは、きっぱりと言った。
「そんなことは、何もありませんでした」
「そんなふうに、言わないでください」
カナンは、迷った子供のような顔をした。
「ごめんなさい。乱暴を謝ります。オレ、あなたのことが」
アイリは、笑った。
顔の筋肉は、見事に笑みの形になっているが、心のこもらない、きちんと相手を見ていない笑顔。
「失礼します。今日は、時間に余裕がないので」
泣きそうな表情のカナンをおき、アイリは立ち去った。
アイリは嘔吐した。
食事は出来なかった。
傷の痛みからでも、衝撃からでもない。
自分を見つけたときの、カナンの笑顔。
完全な拒絶、というものをしてみせたときの、カナンの表情。
なぜ?
反吐が出るのは、自分自身に対して。
あの男になど、何の感情も持っていない。
憎しみすら、抱いてはやらない。
それなのに、あの顔を見たときに、心のどこかが歓喜の声をあげたのだ。
自分は、あの男に何かを期待しているのだろうか?
そう思うと、胃が空っぽになり、黄色い液だけになっても、吐きつづけた。
アイリの顔色の悪さに、すぐ大佐は気付いたようだった。
だが、何も言わなかった。
アイリが、理由を言うはずもないと知っているからだろう。
日が暮れてきて、大佐はアイリに「命令」した。
「さっさと帰って、寝ろ」
アイリは、拝命した。
ACT 3
朝から続く雨は、降り止む気配もなかった。
アイリが、借り上げ宿舎となっている古びた集合鉄筋住宅に戻ってくると、門の脇に人影があった。
背の高い男。
服も、白金の髪も濡れそぼっている。
見ているだけで、凍えそうな状態だった。
だが、彼はアイリを見つけると、にっこりと笑った。
「なぜ、屋根のあるところに、いないんですか?」
アイリは、静かに問う。
「ここが、帰ってくる人が、いちばんよく見えるんです」
「スパイ失格ですよ。物凄く、目立ちます」
「ああ、オレは、目立たないようにするの、諦めてるんです。身長もあるし、見かけが派手だってんで、情報員には向いてないって、ずっと言われてて。だから、切った張ったの仕事ばっかりなんですけど」
楽しいことでもあるように、男は語を発する。
「待っていただいていたようですが、私には、あなたと話すことはありません」
アイリは、さっさと踵を返す。
「いいです。オレは、あなたの顔が見られて、声が聞けただけで、充分ですから」
満足しきったような口ぶりに、アイリは思わず振りかえる。
カナンは、髪から雫を垂らしたまま微笑む。
力を入れて、アイリは首を戻した。
苛々したような足取りで、建物の中に入る。
カナンが動いた気配はなかった。
寝台に入っても、アイリは眠れなかった。
幾度も寝返りを打ち、瞼を強く閉じる。
求められているのだと、錯覚してしまう。
アイリには、兄がいたそうだ。
兄が早逝したあと生まれたので、アイリは兄を知らない。
もっと言うと、兄の身代わりとしてアイリは生まれた。
兄は、優秀な少年だったらしい。
アイリは、兄と同じようであることを、無言のうちに期待されていた。
だから、兄の進路をトレースするように、幼年学校に入った。
不幸だったのは、自我が芽生えて反抗するよりも前に、両親が兄のもとに逝ってしまったことだろう。
幼年学校にいたときに、親友がいた。
アイリは、親友だと思っていた。
長期休暇には家に招いてくれた。
だが、そのときに知った。
歓待してくれた彼の父親は、アイリの父の戦友で、その父の子だから、自分の子とアイリを仲良くさせていたのだと。
真偽を確かめはしなかった。
幼年学校を出たあと、二度と会うことがなかったから。
いつも、いつも。
何かの役割を与えられて、何かの役目を果たしているだけ。
アイリでなければならない、というものは、何もない。
もし、アイリが先に死んで、両親が生きていたら、両親はまた、アイリの代わりに子をなしただろう。
もし、その子が幼年学校に入ったら、彼はその子と親友になるのだろう。
アイリがアイリであるべき意義など、どこにもない。
このひとだ、と思った。
あのひとは、アイリ自身を見つけてくれたのだと、思ってしまった。
だけど、皆と同じ。
ただ、役割をふっただけ。
遊びの相手。
格下の情報員。
あのひとにとって、自分はそれだけ。
アイリは、自分の肩を抱いた。
痛む。
だけど、こんなのは少し強めの薬を飲んで、寝てしまえばいいだけのものだ。それだけだ。
鈍い頭痛を抱えつつ、アイリは朝を迎えた。
雨は上がったようだ。
空気が澄んでいる。
建物から出て驚いた。
カナンが、昨日と同じ位置に立っている。
一歩も動いていないようだ。
「カナン少佐」
アイリの喉から、掠れた声が出た。
カナンはアイリの顔を見た途端に、笑った。
「出掛ける時間なんですね」
「あなた、どうして!」
それ以上、アイリは語を紡ぐことが出来ない。
「あ、少佐なんて呼ばないでくださいね。肩、大丈夫ですか?
痛みませんか? ほんとうに、ごめんなさい」
「どうして……」
アイリは繰り返す。
カナンは、まだ濡れている髪をかきあげた。
「すみません。どうこうしようとしたわけじゃないんです。でも、あの窓の向うにあなたがいるんだなあ、と思うと、嬉しくなって、動けなくて。ごめんなさい。もう、帰ります」
「馬鹿!」
一言、発すると、アイリはカナンの手首を掴んだ。
カナンは、目を丸く見開く。
「さっさと来なさい!」
アイリは、出てきたばかりの自分の部屋にカナンを連行する。
「え、あの、駄目です!」
戸口まで来て、カナンはアイリの手を振りはらった。
「駄目です。あなたの部屋に、あなたと二人きりになったら、オレ、何をするかわかりません。自制心に、自信が」
「自信があろうとなかろうと、どうでもいい! さっさと服を脱いで、シャワーを浴びてください! 浴室はそこですから」
アイリは、幼年学校の発声訓練以来の大声を出した。
カナンは、呆然としている。
電話器をとって、遅れる旨を伝えているアイリを見ながら、カナンはアイリの言に従った。
長身がバスルームに消えたのを確かめ、アイリはキッチンで湯を沸かす。
腹の底から、怒りがわいてきた。
怒りのあまり、手が震えるほどに。
卓に茶と軽食を用意していると、カナンが出てきた気配がした。
「服は乾燥機につっこんでおいてください。スーツは、アイロンをかけます。でも、もう着られないかもしれません。腹のなかにこれを入れて、身体を温めで……。ああ、着替えがいりますね。俺のじゃ、あなたには小さいでしょうが」
矢継ぎ早に言うアイリの背が、ふわりと暖かいもので覆われた。
腰にタオルを巻いただけの、カナンの素肌。
アイリは身をよじって逃れると、カナンの顔を真正面から見た。
プラチナブロンドにふちどられた、紫と金の瞳の、ひどく綺麗な顔。
その綺麗なカナンの顔を、アイリは思いきり拳で殴った。
カナンは上体を揺らめかせただけで、倒れこむことはなかった。
驚いた表情で、アイリを見つめる。
「馬鹿野郎! 一晩中、雨の中、外に立ってるなんて、どういうつもりだ!」
アイリの怒号が響きわたった。
「ごめんなさい。迷惑をかけるつもりじゃ」
「あんたが、どれだけ鍛えられた戦士かは知らないが、そんなことしたら、風邪どころじゃすまない。下手したら肺炎を起こして、死んでしまう!」
カナンは、子供のように小首を傾げる。
「オレは身体だけは丈夫だから。雪山でも平気……」
「だから、あんたがどれだけ丈夫だろうと、知ったことじゃないんだよ! ……俺は知ってる。雨の中を伝令に出て、一晩中、走って雨に打たれて、自軍への責務は果たしたけど、自分は高熱を出して、そのまま還らなかった奴を!」
幼年学校を出て、戦場に配置されて。
そんな任務で、まだ少年のうちに死んでしまった、彼。
親友だったのかどうか、アイリに真偽を問わせてもくれなかった。
「ごめんなさい。……オレは大丈夫だから」
カナンは、そっとアイリの身を抱く。
小刻みに震えている背をさする。
「何も考えられなかった。あなたがいるというだけで、幸せで。寒いとも思わなかった。好きです。あなたが好きです」
アイリはつかの間息を止め、カナンの胸を押しかえした。
「何か、着る物を持ってきます。先に、食べていてください」
カナンは、おとなしく卓についた。
アイリが、大きめの服を持って戻ってくると、カナンは顔をしかめ、オートミールを匙でつついていた。
「オートミールはお嫌いですか?」
アイリが尋ねるとカナンは、はじかれたように顔をあげ、首を振る。
「そんなことはないです。ただ……」
アイリから衣服を受けとって、もそもそと着込みながら、カナンはアイリを不安そうに見る。
「ああ、口の中が切れてしまいましたか」
アイリは、カナンの頬に手を当てる。
カナンは赤面した。
アイリから、カナンに触れたのは初めてだった。
その手をずらし、アイリはカナンの鼻をつまむ。
カナンが抗議の声をあげるより早く、アイリは匙をとりあげて、呼吸のために開けたカナンの口に、オートミールを流し込む。
機械的にそれを繰り返して、皿の中身がいくらか減ったところで、やっとアイリはカナンを解放した。
カナンはしばらく咳き込む。
「ひどい、です。オレ、嫌いで、食べなかったわけ、じゃ」
「オートミールっていうのは、こうして子供に食わすらしいですから」
アイリは、平然と熱い茶をいれる。
「そりゃ、ずっとちっちゃい頃に、キースにやられましたけどっ。そんなの二十年も前でっ」
「やっぱり、食べられなかったんですね」
アイリは、くすりと笑った。
「私は、最初からちゃんと食べられましたよ」
「それは嘘だ! あんなもの、子供が食べられるわけない!」
「食べたんです。……兄も、最初から食べられたらしいですから」
カナンは、例によって、こどものように小首を傾げた。
淡々と、アイリは続ける。
「兄は何事にも優れていたそうです。その兄が死んで、身代わりとして俺が生まれたので、兄がしたこと、できたことは、俺もできなくちゃならなかったんです」
「身代わりなんて、変です。あなたはあなたでしょ?」
カナンの声音は、まさに子供が不思議がって尋ねるようなものだった。
「一人の人間が、他の人間の通りになんて、なるわけないし、なったって意味がないです」
カナンは、あの笑顔をアイリに向ける。
輝くような。
「オレ、あなた以外のひとなんて、嫌です。あなたがいい。あなただけが欲しい。あなたじゃなきゃ、欲しくない」
アイリの鼻の奥が、つんとした。
身を二つに折って、泣きたい衝動が訪れた。
しかし、アイリはそうはしなかった。
カナンの鼻を、またぎゅっとつまみ、上着をとった。
「じゃあ、残りは全部、食べてください。大佐には言っておきますから、少し、ベッドで寝ておくように。もし、熱が出たら、ベッドサイドの薬箱に、解熱剤がありますから」
「あなたが出掛けるんなら、オレも行きます」
「こんな状態で、連れていけません」
「身体なら、なんともないです。熱なんて、出るわけないし」
「言うとおりにしろ!」
アイリに強く断じられ、カナンは上げかけた腰を降ろす。
下方から、アイリの顔を掬いあげるように見る。
「帰ってきて、くれますよね?」
「あたりまえでしょう。ここは、私の部屋なんですから」
アイリは素直に笑った。
ACT 4
「休暇の延長? ねむたいこと、ほざくんじゃねえよ。司令のじいさんが、痺れを切らしてるだろうが」
金髪碧眼の男は、首にタオルを巻いて、左手に歯ブラシ、右手にカップを持ったまま、床に座って決死の目で見上げてくるカナンの脇腹を、足先で突ついた。
「休暇じゃなかった! システムを調整したり、銃の点検したり! だいたいオレがここに来たの、ユーア・コラルカを牽制するためだろ」
「その通り。邪眼のミラがリショウ入りしたって情報だけで、ユ・コ、増強した二個中隊を何もしないうちに引っ込めやがった。ざまあみろ」
「オレが来て何か企んでるって、中央のトラストにバラまかせたでしょ。オレが来た初日」
「さすが、俺んちの子だ。馬鹿ってわけじゃないよな、おまえ」
「かわりに、中央の作戦で陽動するんだよね。軍情の邪眼のミラの名で。つまり、オレが働かせられるんじゃないか!」
「中央に挨拶に行くときは、バームクーヘン、持ってけよ」
「オレには? オレには、何も出ないじゃないか! 特別手当がわりに、休みをくれ!」
「そいつは無理だ。クリスマスにプレゼントを張りこんでやるよ」
「ねえ、キースんなかのオレに、二十歳くらい足してくれない?」
「足して、この程度だが?」
「じゃあ、それでもいいよ。クリスマスプレゼントの早渡しで、休み!」
「やらん」
「それなら、オレをここのチームに転属させて」
「させるか、阿呆」
カナンは、子供のように口を尖らせる。
「オレ、情報部を辞める。今すぐ。それで、ここから動かない」
「おお、いいぞ。今すぐ辞めろ。俺は全然、困らないし、もともと、おまえにこの仕事をさせたかなかったんだ」
言いながら、大佐は姿を消す。
しばらくして、歯ブラシとカップを持たずに、タオルで口元を拭いながら戻ってきた。
床に蹲って動かないカナンの前にしゃがみ、目を合わせてにっこり笑う。
カナンは、不安そうに眉根を寄せる。
エイボン大佐は笑顔で言った。
「大丈夫。アイリを転属させるだけだ。年齢や実力からいって、おまえの後釜はあいつだからな」
カナンは、立ちあがる。
「帰る」
嫌そうに言うカナンに、先刻までと逆になり、プラチナブロンドの青年を見あげ、金髪の男は笑みを人の悪いものにかえた。
カナンは、憮然とした。
近づいたと思ったのに。
アイリはカナンを寄せつけなかった。
どうやら事情をすっかり把握しているらしい大佐が、アイリを援護する行動をとるので、あの後、二人で話すこともできなかった。
本国から司令の呼び出しがかかり、カナンは、自分の保護者であった男に精一杯、駄々をこねてみたのだった。
失敗は目に見えていたのだが。
「ほんと、俺っておまえに甘いよな。わざわざ空港まで送ってやるなんてさ」
喫煙コーナーのカウンターに凭れて、金髪の男が、煙とため息を一緒に吐きだす。
「空港じゃなくて、もっとずっと高いところに送ってもらえそうだったけど。あれって車のスピード?」
自販機のコーヒーを啜りながら、カナンが言う。
「たかだか180キロじゃねえか。レースだと250はいく」
「死神に微笑んでるよね。レースに出るときは、ひとりで出てください」
「可愛くねー。俺がどっか行こうとすると、服の裾にしがみついて、自分も行くって泣いて離れなかったおまえは、どこに行ったんだろうな」
「オレ、そんなことしたこと、あったっけ?」
「ない」
「こういう人だよ」
「行動はしないが、そういう心になったことは、あっただろ」
「うん。オレは一生、あんたのために働くことになってるから」
当たり前だというようにカナンは言い、空になった紙コップをダスターシュートに捨てた。エイボン大佐は珍しく軽口を返さず、どこか悲しげな目でカナンを見る。
訝しく思って開きかけたカナンの口が、半分ほどのところで動きを止めた。
人の波をぬって、黒髪の青年が近づいてくる。
カナンの纏う雰囲気が変わる。
輝くような笑顔。
黒髪の青年だけを見つめて足を踏み出すカナンに、苦笑し大佐は吸っていた煙草を灰皿に押しつけ、新しいものを咥えた。
「どうして」
息せき切って言うカナンに、アイリは真顔で対峙した。
「お迎えしたのも私ですので、お送りするのも責だと、大佐に命じられまして」
カナンは、ちらりと金髪の男を振りかえる。
男は、そっぽを向いていた。
アイリは丁寧に言う。
「お疲れさまでした。このたびはご助力を有難うございました」
カナンは腕を伸ばし、途中で止め、掌を握ったり開いたりを繰り返す。
「また、会えますか」
「任務でご一緒することも、あるかもしれません」
「また、会いにきます」
「大佐がお喜びになります」
「許してください。あなたが好きです」
「それについては、私には職責外ですので」
何かを言いかけて、カナンはやめた。
沈黙を破るように、搭乗を促すアナウンスが入った。
「行かないと。あの、来てくれて有難うございました」
カナンは、アイリに触れたがる指を、もう一方の手で押さえこんだ。
大佐に目で合図をし、カナンは何度も振りかえりながら、搭乗口に消えていった。
金髪の男と、黒髪の男は、それを見送ってやる。
アイリの肩に、大佐が手をやった。
「ありがとな、アイリ。痛むか」
「いえ。仕事ですから」
その一言で、双方の返事とする。
大佐は、優しく笑む。
「よし。じゃ、今日は、俺が乗せてってやる」
「私も車で来ましたので。ご遠慮申しあげます」
「いいじゃねえか。たまには」
「私、車は150キロ以下で走るものだと決めている無骨者ですから」
毅然と言われ、大佐は肩をすくめた。
ACT 5
アイリが他人に対して、あからさまに負の感情をぶつけた相手は、カナンが初めてだった。
怒りを感じ、殴り、拒絶した。
それでいて。
カナンが変わらない好意を向けてくるのを、心地よく感じているのも、自覚していた。
だがカナンからの、メールや電話にも一切、応対しなかった。
それでも送られてきていたものが、ある日、突然、途絶えた。
それは、任務の為だったようで、しばらくすると、また頻繁な連絡がきた。
アイリは返事をしなかった。
それは、そんな一通だった。
明けていく白い峰の画像。
添えられた文は、たどたどしいものだった。
―美しいと思いました。
あなたに見せたいと思いました。
あなたと一緒なら、もっと美しいと思いましたー
アイリの胸に、何かが溢れた。
それは、急に湧いてきたものではなかった。
いろんなものに鎧われていたのが、とうとう突き破って滲みだしてきた感じだった。
もう、カナンを怒ってはいない。
銃弾も、キスも。それどころか。
けれど、溢れるものに対抗するかのように、アイリはいつもの通りにそのメールを完全に削除した。
その日のエイボン大佐は苛立っていた。
「私が申し上げる筋ではありませんが、煙草の本数が増えすぎではないでしょうか」
アイリは、おそるおそる大佐に忠言する。
「ん」
大佐は、素直に煙草を消した。
「中央がやりすぎた」
「え、カナンさんが参加している作戦ですか」
「ああ。ユ・コ本国で深追いするなんざ……。トラストなら、うまく引き揚げさせるだろうが」
神経質に、大佐は幾度も指を組みかえる。
「邪眼のミラを捨石にするだろう」
アイリは、全身が凍りつくような感覚を覚えた。
それが、何によって起こったのか、自分でもわからなかったが。
大佐は結局、新しい煙草に火を点けた。
今度は、アイリもそれを咎めなかった。
「アイリ。すぐに来てくれ」
コンピュータ室にいたアイリは内線を受け、エイボン大佐のもとに駆けつけた。
「お呼びですか」
傍に立ったアイリの腕を、大佐は縋るように握った。
「しばらく、私から離れないでくれ」
金髪の男らしくない、弱々しい掠れた声。
「何か?」
「カナンの消息が途絶えた。おそらく絶望だろう」
「!!」
アイリは声も出せずに、息を呑む。
「傍にいてくれ。そうでないと、無茶な指示を出してしまいそうだ。いや、自分自身が動いてしまう」
「私はここにおります」
アイリは目を閉じて、その言葉だけを押しだす。
「頼む」
大佐の声音は、かすかに震えていた。
大佐はアイリの腕を離さなかった。
その手に縋ったまま、指令を飛ばす。
「ユ・コの情報は、クオリティレベル1でも私に回せ」
「ユタナ国が動きだした? 捨てておけ」
「交代。Fセクションは完全休養。だめだ。完全休養だ!」
「Dシフトを敷いて、Aレベルで待機」
「戦闘機は5機、スタンバイ。聞こえなかったのか? 5機と言ったら5機だ」
「大統領か。私が直接、話す」
大佐の口調がいつもとは違う。
切れのいい命令にかわりはないが、崩れたところの全くない発音をする。
「動力を確保しろ。封鎖されても、三日はもちこたえられるように」
二手も三手も先回りするような指示。
普段のエイボン大佐は、こうではない。
横暴に見せかけながら、それぞれに考えさせ、最良の道に導いていく。
剥きだしの知性。剥きだしの品性。
部下のレベルまで降りていく余裕が、今の大佐にはない。
「飲み物を」
シフトが敷かれたところで、アイリは声を発した。
「あ、ああ」
大佐は、初めて気付いたようにアイリの顔を見る。
「少しの間だけ、手を離していただけますか? ほんの少しで構いませんから」
「すまない」
金髪の男は、ゆっくりと指をはがす。
備え付けのミニキッチンで茶を淹れようとし、アイリは自分の手が震えることを訝しく思った。
長く拘束されていたせいだろうか。おそらく痣になっているだろう。腕をさする。
いや、そのせいではない。指先が震える。
アイリは、ひどく苦労して茶を淹れた。
大佐に運ぶ間にも、小刻みに震える。
「ありがとう」
カップを受け取り、大佐はおもむろに口をつける。
「悪いな、アイリ。もうひとつ、無理を言わせてくれるか」
「はい。私にできることでしたら」
大佐はカップを置き、アイリを手招いた。
座したまま、大佐はアイリの身を抱きしめる。
「今はまだ、なんとか大丈夫だ。だが、私が私怨に走った命令を出したら……。アイリが止めてくれ」
「はい」
温もりを感じながら、アイリは受諾する。
胸の奥で、自分が自分を非難する。
嘘吐き。
あのひとを喪って、耐えられそうもないのは自分なのに。
あのひとを奪われたなら、その、すべてを殺してやりたいくせに。
嘘吐き。
自分の気持ちを誤魔化していたから。
あのひとに応えようとしないから。
自分で自分に嘘をついてきたから。
だから、これは罰だ。
ああ。
まただ。
何も言わないうちに、自分はまた喪ってしまう。
回線が、エイボン大佐を呼んだ。
金髪の男は、慣れた動作でつなぐ。
「トラスト! どうした!? ……ああ、わかった。あとはこっちでやる。貸しは高くつくぞ」
大佐は、大きく息を吐いた。
「カナンは生きている。トラスト本人が確認した」
その言葉が脳に伝わった途端、アイリは意識を手放した。
唇に熱い液体の感覚を覚えて、アイリは目を覚ました。
オフィスの長椅子に寝かされていた。
眼前に、金髪碧眼の整った顔がある。
「大佐……」
「人口呼吸みてえなものだ」
片目をつぶり、大佐は洋酒の瓶に口をつける。
どうやら気付けがわりに、口移しで火酒を与えられたらしい。
「申し訳ありません。ご迷惑をおかけしました。情勢のほうは」
アイリは上半身を起こす。
「カナンは国境でおたついてるってよ。本人と連絡はとれてねえけど、生存の第二報も受け取った」
大佐は、すっかりいつもの彼に戻っていた。
「トラストも、ただでは転ばねえや。政治的駆け引きで今回の作戦も五分に持ちこんだ。すぐに次の手をうちが打たにゃならんが」
この金髪の男は、プラチナブロンドの青年が喪われたと思った瞬間に崩れ、生きていると知らされたなり立ち直った。
アイリは、カナンが生きていると知らされて倒れた。
極度の緊張がとけたのだろう。
それだけ、緊張していたのだろう。
アイリは、上司をまっすぐに見る。
「シフトの変更をお願いできませんか。私を国境まで派遣していただきたいのです」
「任務内容は?」
「ガイア軍情報部工作員の生存確認、及びその撤退の補助です」
「うーん。アイリには俺の傍に、いてもらいてえんだが」
「カナンさんに会いたいんです」
一語、一語を押しだすように、アイリは言った。
「誰よりも早く、生きているカナンさんに会いたいんです」
金髪碧眼の男は笑った。
「また、あいつを甘やかしちまう」
ACT 6
医薬品や救助物資、武器などをジープに積み、アイリは国境へ向かった。
もう、逃げない。
自分から行く。
決して、失いはしない。
国境の町は、数年前の戦闘で廃墟と化していた。
アイリはジープを止め、背嚢を背負って降りる。
右手には銃を構える。
どちらかといえば内勤の仕事が多いアイリだが、射撃の腕には定評がある。
人の気配はない。
中央情報局からの情報では、このポイントのはずなのだが。
アイリは、ゆっくりと探っていく。
その廃絶された病院を見つけたとき、何かがアイリに告げた。
カナンが傷を負ったなら、必ずここにいる。
無人で器機や薬品の瓶が転がっている薄暗い建物を、アイリは一歩一歩、進んだ。
使われなくなって随分になるのだろうに、消毒液や薬品による、病院独特の匂いは消えていない。
病棟であったところの角を曲がったとき、アイリのこめかみに筒状のものが当てられた。
次の瞬間、息を呑むような音がして、掠れた声が呟いた。
「……なぜ、ここに」
アイリは、顔を横に向けた。
そこには身体中、血にまみれた白金の髪をした男がいた。
アイリは満面の笑みをたたえる。
「あなたに会いにきました。カナンさん」
カナンの顔が驚愕に彩られる。
アイリの瞳に、涙が滲んだ。
おそるおそる、カナンは両腕を差しのべる。
その胸に、アイリは飛びこんだ。
キスは血の味がした。
泥の味も混ざっていた。
生きている証の体温を、ゆっくりと感じあう。
周囲には、消毒液と薬品臭が立ちこめていた。
足が取れた、傾いだベッドで眠った。
アイリは、切れ切れに夢を見た。
両親や、親友が出てきたようだった。
覚醒したときに、アイリは泣いていた。
カナンが、自分も泣きそうな顔をして、アイリの涙を拭っている。
アイリは、ゆるやかに首を振った。
「あなたのせいじゃないんです」
ちゃんと、悲しい涙が出た。
彼らを喪って、悲しいと心が認めた。
自分の気持ちも貰った気持ちも、本物だった。
今なら、素直に信じられる。
アイリは、カナンの背に腕を回した。
今、ここに感じる温もりが在ることを、いったい何に感謝したら、いいのだろう。
それはわからなかったので、祈る言葉も持たなかったので、アイリは、カナンに告げた。
愛していることを。
薬品や消毒液の匂いが満ちていた。
これから、この匂いを嗅ぐとこの日のことを思い出すのだろう。
また、カナンのことを思い出すたび、この匂いがついてまわるのだろう。
ロマンチックには程遠いが、それもいい、とアイリは思った。
その鮮やかな笑顔を見たとき。
このひとだ、と思った。
このひとだ、と思ったんだ。
その笑顔は、愛するひとを幸せにするから。
だから。
男は笑う。