夏の日

目を開けると、父さんの心配そうな顔があった。
「よかったカカシ、熱中症だって。気分は?」
額にのせてあった布を取りながら、何時ものように優しく聞いた。
ボクは見覚えの無い天井に違和感を覚え、周りを見た。
床の上に敷いた寝具にボクは寝ていて、外からうるさいほどセミの声が聞こえていた。
こんな場所は知らない。
「父さん、ここはどこ?」
「母さんの育った家だよ。これからはここで暮らすんだ」
ボクの額にかかった髪を父さんは柔らかくかきあげながら、やっぱりいつも通り、優しく答えてくれた。
父さんの手はひんやりしていて気持ちがよくって、思わず目を閉じた。
「もう少し寝た方がいい。次に起きたら桃を食べよう。ミナトのお土産だよ」
ミナトって誰だろう?
母さんの事は覚えていないけど、ボクが小さなころに亡くなったということは知っている。
でも、ここに越したのは覚えていない。
わからないことばかりだった。
父さんがまた額にのせてくれた布の冷たさが気持ちいい。
目を開けるのも、口を開くのも億劫だった。
父さんが傍にいてくてればそれでいいや、と思ったところで記憶が曖昧になっていった。

次に目を開けると、金色の髪の若い男の人がいた。
「カカシくん」とその男は当り前に言った。
「熱中症だって、急に倒れるからびっくりしたよ。気分はどう」
父さんと同じ手つきで額の布を取りながら言った。
その仕草がボクによく馴染んでいたので、「どなたですか?」と聞くかわりに、「気分はいいです」と答えていた。
父さんは何処だろう。知らない家に知らない人といるのは、ちょっと怖い。
「大丈夫、サクモさんは部屋で仕事だよ。」
金色の髪の人はまるでボクの気持ちがわかったように言った。
「気分がいいんだったら、桃、食べよう。美味しく冷えてる」
目の前に差し出された手をつい掴むと、ふわりと簡単に起こしてくれた。
暖かくて大きな手だった。
そう言えば父さんも桃が‥と言っていた。誰のお土産だと言ってたっけ?

シンクにはカランからの水を静かに湛えている白い琺瑯のボールがあって、その中で桃が沈んでいた。
桃の細かな柔毛が小さくな空気の泡をいくつもつけ、桃が呼吸しているように見えた。
金色の髪の人は桃のキラキラ光る泡が消えてしまうのを躊躇なく一つ掴むと、存外細かな手つきで皮を剥いた。
乳白色の果肉が覗く。
「いい香りだね」
「父さん!」
後ろにいたことに気がつかなかったボクは、嬉しくなって父さんに抱きついた。

テーブルの青い手吹きガラス皿も、添えらた水牛角のフォークもボクと父さんが日常に使っていたものだった。
桃は甘くて柔らかくて果汁が溢れている。
ボクの知っている小さくて固くて酸っぱい桃とは違い、瑞々しさが怠い身体を覚醒してくれるようだ。
ボクは夢中で食べた。
「ミナトが選ぶものに間違いはないね、とても好い桃だ」
そう父さんが言ったので、この金色の髪の人が桃を持って来たミナトだとやっとわかった。
父さんに褒められたミナトさんは、とても嬉しそうだった。
「カカシ、ここ」
口の横についていた果肉を父さんがとってくれる。
父さんの手も桃のいい香りがしたので、ボクはその果肉を摘んでくれた指先をペロリと舐めてみた。
父さんは擽ったそうに小さく笑った。
それを見たミナトさんが何とも不思議な顔をしたのが可笑しくて、ボクも笑った。

朝起きたら、父さんがいなかった。
ミナト先生が「サクモさんは仕事だよ」と教えてくれた。
ミナトさんは、勉強から洗濯物のたたみ方までなんでも教えてくれるので、ミナト先生になった。
ボクはどうしてここに住んでいるのか、どうしてミナト先生も一緒に暮らしているのか、やっぱりわからなかったけれど、父さんがいつも一緒だったので、ちっとも気にならなかった。
でも、今日は違う。
父さんがいないから。

お昼になっても父さんは帰ってこない。
昼食に先生は素麺を茹でてくれた。
「ごちそうさまでした」
「ん、カカシ君、昨日はたくさん食べたのに」
ほとんど手をつけなかった器を見て、先生が心配そうに言った。
父さんと一緒に食べたときは美味しかったけど、一人で食べると味も歯ごたえもなくて、素麺なんてちっとも好きじゃなかった。
先生が裏庭に出ている間に、外に出る。
父さんを探しに行くことにした。

外は暑すぎる。
一瞬、目の前が真っ白になった。
道の片側は田んぼで、片側は防風林だった。
舗装のない道は向こうまでまっすぐに伸びている。
注意深く日陰を選んで歩いた。
前庭で鶏を放し飼いにしている家や、牛の鳴き声が聞こえる家の前を通る。
外に出ている人は誰もいなかった。
やっぱりここは知らない所だ。

ボクと父さんは運河に浮ぶボートハウスで暮らしていた。
船高が低く細長いボートでの生活はとても快適だった。
灰青色に白い窓枠の塗装はボクのお気に入りだったし、ボートの中は小さくまとまり、父さんがどこにいてもすぐにわかった。
窓から見える水面は見る度に表情が変わり、飽きる事が無い。
春、羽が黒く嘴がオレンジ色の水鳥の卵が孵り、ボートの横を親子が連なって泳ぐまでを毎日観察出来た。
夏はいつまでも暗くならない空の下、デッキで本を読む父さんの傍でジェラードを食べるのが夕食後の楽しみだった。
秋になるとボートから自転車を下ろし、父さんと水門横のパンケーキハウスを目指す。
大きなお皿からでもはみ出すほどの丸くて薄いパンケーキは、縁がパリパリしているのがいい。リンゴとシナモンにトロリとしたシロップがかかり、粉砂糖で真っ白になっているのをボクは必ず注文した。
冬は寒くても最高だった。
運河は凍結するので、移動はスケート靴だ。
何処にでも通じている運河は、道を歩くよりもよほど早く目的地に到着出来た。
用事が終ればスケート靴のまま運河沿いのカフェに寄る。
父さんはスケートでヘトヘトになったボクのためにココアとウサギの形のクッキーを頼んでくれた。
ボートハウスには季節に応じた幾つもの楽しみがあり、ボクの傍にはいつも父さんがいてくれた。
父さんのいる所がボクのいる所だ。
父さんがいればボクは満足なのに、他にはなにも必要ないのに、どうして父さんがいないんだろう……

父さんがいないのが寂しくて、悲しくて、ボクは防風林の下から動けなくなった。
数人の人がボクの周りに集まって来て、てんでにボクに話しかけてくる。
髪も目も黒く、夏の強い日射しにも負けないようなオークルの肌を持つ人たちが話す言葉は、ボクには全く分からない。
ボクはますます心細くなって、地面に滲む黒い影を睨みつけることしか出来なかった。
「カカシ君」
理解できる言葉に顔をあげる。
「ミナトせんせい……」
「黙って出掛けると心配するよ、帽子もかぶってないし」
砂漠に探険に行く時に被るような、白くてつばの広い帽子を先生は柔らかく頭にのせてくれた。
「サクモさんのお迎えに行こう」
先生はボクの手を握り歩き出す。
どうしていつもボクの気持ちがわかるんだろう?

逃げ水がユラユラ揺れる道の向こうに人影が見えた。
「父さん!」
ボクは一目散に駆けだした。
父さんがボクを抱き上げる。
「ただいまカカシ、お迎えありがとう。お土産があるよ」
ボクの頭をふんわりと撫でてくれ、先生の方へ歩き出した。
ボクはこんな甘えたを先生には見られたくなかったけれど、このポジションを手放したくもなかった。
「お疲れ様でした。暑かったでしょう」
父さんから荷物を受け取った先生は、ボクとは目を合わさずにいてくてた。
ミナト先生はボクが思っているよりもいい人かもしれない。
父さんと先生が並んで歩く。
??父さんはどこに行ってたんだろう? お土産ってなんだろう?
父さんに抱かれたまま、規則正しい揺れが気持ち良く、ぼんやりとボクは考えていた。(終)

x-clubのkurihararisu様から頂きました!
私の中で、BGMはsummer(ひさいしじょう)のイメージです!
毎日、ほんとうに、ありがとうございました!

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