切なすぎるバラード

療養所に向かう道、車の中ではいつもラジオを付けっ放しにしていた。
運転する波風ミナトは、機嫌よく、流れてくる音楽に合わせて口ずさんだり、話が面白ければ声を立てて笑った。
彼と二人だけの暮らしになってわりと長い時間が過ぎていたけれど、はたけカカシは、ミナトが激したり、悲しそうにしているのを見たことがなかった。
仕事して、大学に行って、カカシの世話をして(カカシはまだまだ手の掛かるこどもだったし)、二週間に一度の療養所通いをして。
いつでも、笑っていた。
疲れた様子を見せたこともなかった。
「若いしさ。それに、おれ、いやになるくらい丈夫なんだよねえ」
それが口癖だった。
弱音など吐いたことも、なかった。
だから、こどもだったカカシは。
「カカシは、ほんとに可愛いなあ」
そう言って、ミナトがカカシを抱きしめることを言葉どおりに取っていて、顔を隠すためだなんて考えてみもしなかった。
高速を降りて、目に馴染んだ草地の道を行く。
ラジオ局のチャンネルをこの地方のものに、カカシが合わせる。
慣れた、いつもの習慣。
音楽。
流れる音楽。
ミナトは緩やかにハンドルを切り、車を道の脇に止めた。
「ごめんね」
言うなり、ミナトはハンドルを握ったまま、顔を突っ伏した。
ミナトの肩が震える。
押し殺した、ひどく苦しそうな声。
ミナトは泣いていた。
ミナトが泣いていた。
カカシはびっくりして、何も言うことが出来ず、シートに固まっていた。
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
カカシまで、泣きそうになった。
カカシが泣き出す寸前に、ミナトは顔を上げた。
「ごめんね」
また、それだけを言い、車を発進させる。
カーラジオからは、賑やかなお笑い芸人の声が聞こえてきた。

サクモの調子は、あまり良くなかった。
ミナトの名を呼んでいながら、ミナトに怯える。
目の前にいるカカシがわからなくて、カカシを探す。
ミナト。カカシ。
サクモがひたすらに呼ぶ名前。
でも、サクモが一心に求めるミナトとカカシは、ミナトとカカシじゃない。
それでも、ミナトは優しく、根気強く。
いますよ。おれもカカシも。
あなたのそばに居ます。
いつもの笑顔で。
産声以外に泣いたことなんか、いっぺんも無いような笑顔で。
ただ、サクモを甘やかす。

ずいぶんと後になって、ミナトはカカシに言った。
「あのとき、流れてきた曲ね、おれとサクモさんが初めてキスしたとき、サクモさんが初めておれを受け入れてくれたときに、流れてた曲なんだ」

苦しいことのほうが多い、いや、苦しいことばかりの恋だっただろう。
「おれは、世の中をなめたガキだったからね」
ミナトはそう言って、笑う。
なんでも出来て、なんでも手に入って、女の子は向こうから寄ってきて、まさか、恋に悩むことがあるなんて、想像してみもしなかったという。
天才だったから、年はこどもだったけれど、ちゃんとした研究員として所属していた研究所で、ミナトは、はたけサクモに出会った。
師の友人で、妻を亡くし、生まれたばかりのカカシをかかえて途方に暮れていたサクモに、恋をした。
サクモは、ミナトが初めて出会った、自分の思い通りにならない人、自分を好いてくれない人、だった。
「恋する相手だったら、もっと他にいくらでもいるのにって、自分に腹が立ったよ。でも、おれはサクモさんが好きで。サクモさんだけが好きで」
なんでも出来て、なんでも手に入ってきたミナトが、自分の心だけはどうにも出来なかったなんて、皮肉といえば皮肉だし、当然といえば当然なような気もする。
サクモは、ミナトを拒みつづけた。
そのときだって、無理やりにサクモの車に乗りこんだんだそうだ。
轢き殺されるのも覚悟で。
サクモの無言の拒絶にたえきれなくて、ミナトが付けたカーラジオから、切ないバラードが流れた。
サクモは、そっと道の脇に車を止めた。
ハンドルに顔を突っ伏せる。
驚いてミナトが顔を覗きこむと、その眦に、涙が筋を作っていた。
考える間もなく、ミナトは、サクモの涙を舐めとった。
サクモの身体から、力が抜けた。
ミナトは、震える指で、愛しくてたまらない年上の男を抱きしめる。
キスを。
すべての想いをこめて、キスを。
サクモはもう、拒まなかった。
カーラジオから流れてきた切ない音楽がもたらしてくれた、恋の歓喜は長くは続かなかった。
国家的規模のプロジェクトが失敗し、サクモは責任を取り、そして、心身を病んだ。
それでも。
「サクモさん、おれの名を呼んでくれるからね」
ミナトは、産声以外に泣いたことなんか、いっぺんも無いような顔で笑う。

切なすぎるバラード。
それは、甘い記憶と辛い現実を同時に想起させる。
少しの時間だけ泣いて。
また、走りはじめる。

戻る