蔵の中(近代パラレル)

「決して、蔵に近づいては、いけないよ」
はたけカカシは、そう、波風ミナトに厳命されていた。
ミナトがカカシにとって父でも兄でもなく、親戚ですらなく、「先生」という存在でしかないことは、世界に目を開いた最初から、わかっていた。
けれど、ミナトだけが、カカシを心底から愛してくれていて、全力で守ってくれる存在であることも、わかっていた。
そして、カカシは、ミナトが大好きだった。
大好きなミナトの言うことに、背くことなど、考えたこともなかった。

屋敷の広い庭で慣れた独り遊びの末に、鳥の鳴き声を追って蔵の前に出たときも、カカシの頭には、ミナトの声がちゃんと聞こえていた。
「決して、蔵に近づいては、いけないよ」
だが、脳裏のミナトの声を掻き消すように、美しい歌声が、響いてくる。
白壁の蔵の扉が、細く開いていた。
そこから、歌が、洩れている。
高い音程だけど、男の人の声だった。
知らない、異国の言葉だった。
カカシは、足音を立てないように、蔵に忍び寄り、戸を少しだけ余計に開けた。
天窓からの一筋の光に照らされて、カカシと同じ、銀色の髪を長くした人が、足を投げだして、座っていた。
着物はただ身にかかっているだけの状態で、真っ白な両肩が見えた。
振り向く。
瞳の色も、カカシと同じ色だった。
「カカシ」
歌を止めて、その人は呼んだ。
呼ばれたので、カカシは歩を進めた。
広げられた両腕に飛びこむ。
薬と消毒薬の匂いがした。
そして、とても暖かかった。
時々、カカシを、ぎゅうぎゅうとその豊かな胸に抱き寄せる、お医者様の綱手姫よりも、暖かかった。
熱いくらいに。
「カカシ」
その人は、もう一度、言った。
「はい」
カカシは、素直に、返事をした。
「カカシは良い子」
その人は、歌うように言い、実際、そのまま歌いはじめた。
カカシを胸に抱いたまま。
目を閉じて、カカシは、その温もりと美しい歌を味わった。

気がつくと、カカシは、自分の寝台にいた。
「ん! 目が覚めたね」
金髪碧眼のミナトが爽やかに笑い、カカシの髪をかきあげる。
「庭で寝ちゃったら、駄目だよ。風邪を引いてしまうよ」
ミナトの声は、いつも通りの穏やかなものだった。
「ミナト先生! オレ、蔵で! あの、ごめんなさい、先生の言い付けを破っちゃったけど。蔵に、人が」
「何を言っているの?」
ミナトは、カカシの言葉を、最後まで聞かなかった。
「カカシは、樹の下で寝ちゃってたよ。蔵のほうじゃなくて。夢でも見たんだね」
それから、ミナトは、カカシの頭を撫でる。
「カカシは良い子だから。おれの言うことを、破るはずなんか、ないよ」
―カカシは良い子―
確かに聞いたと思った声も、歌も、ミナトに断言されると、夢だとしか思えなくなった。
不思議な、でも、暖かい夢だった。
カカシは、思い出そうとして、思い出せない歌の旋律に、もどかしい気持ちになりながら、瞼を閉じた。そして、眠りのなかに、すべてを沈めた。

ミナトが、ピアノを弾きながら、歌っていた。
カカシの知らない、異国の歌詞をもつ歌だった。
「先生。それ、なんて曲ですか」
知らない言葉なのに、これを聞くのは、初めてではない、と奇妙に感じながら、カカシは訊ねた。
「あの市に行くのかい? という歌だよ」
答えてから、ミナトは、始めから弾き、歌った。
「どこかで聞いたことがある」
カカシは、首を傾げた。
「有名な歌だからね。君のお父さんが好きな歌なんだよ」
ミナトが、カカシの父について語ったことは、これまで、なかった。
カカシが物心ついたときには、この屋敷をミナトがとりしきり、使用人たちに囲まれて、暮らしていた。
カカシは、両親のことも、他の血族のことも、誰も何も知らない。そして、それを疑問に感じたこともなかった。
カカシは、ミナトが、もっと話してくれることを期待して、待った。
だが、ミナトの言葉は、それだけで途絶えた。
語るかわりにか、ミナトは、長い指で鍵盤を操り、歌った。

  あの市へ行くのかい?
  パセリ、セージ、ミント、ローズマリー
  あそこには、わたしの永遠の恋人がいる

蔵の、重い扉を波風ミナトは押した。
月明かりでさえ、蔵には、明るすぎるように思えた。
いつものように歌声がのぼっていく。
「サクモさん」
静かに、静かに、その名を囁く。
長い銀の髪の男が、振り向いた。
歌を止め、あどけない声で呼ぶ。
「カカシ?」
「いいえ。ミナトです。波風ミナトです」
何百回、何千回と繰り返した問答、いや、儀式だった。
「おれはミナトです」
押しころした声で囁き、腕に抱きしめ、口を吸う。
銀の人が、サクモが、歌えないように。
魔除けのように、香る草の名を、続けて歌えないように。

はたけ家当主であり、この国で白い牙の異名をとったほどの政財界の風雲児であったサクモが、失態による国家の損失を責められ、自死をはかったのは、もう随分と前のことになる。
一命をとりとめたものの、サクモはそれきり心も体も病んでしまった。
サクモの形の良い唇から吐かれるのは、愛息カカシの名と、異国の歌と、胸からくる鮮血だけになった。
カカシをしか呼ばないのに、幼子がカカシだとは認識しない。
ミナトはずっと、忘れられたままだ。

サクモの白い身体を折り、皮膚に口付け、雄を埋めこむ。
快楽と苦痛のままに、サクモは声を挙げ、身をくねらせる。
名を呼ばれなくても。
自分だとわかってもらえなくても。
ミナトは幸福だった。
公的には「白い牙」であり、私的にはカカシの父であったサクモを、今は独占している。
ミナトだけが、サクモを見つめ、抱き、愛を囁ける。
独り占めしている。
サクモが、ミナトを見つめていなくても。

サクモの歌が、蔵の中に満ちる。
ミナトはサクモの、長く銀色の髪にキスをする。
「おれは、永遠の恋人を手に入れましたよ」
サクモの耳に届かないと知っていても、言葉を紡ぎつづける。
天窓から入る月の光は、蔵の中で、眩しいほどだった。

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