オフェーリア

波風ミナトのことを、はたけカカシは「兄さま」と呼んだ。
ミナトは言う。
「お父さんて呼んでよ」
幼いカカシは素直に「お父さん」と呼んでくれる。
するとはたけサクモが、林檎を蜜柑と間違えたのを蜜柑だと正す口調で「ミナト様でしょう」と直す。
これもまた、ちゃんとカカシは「ミナト様」と言い換える。
そう呼ばれてしまうと、ミナトは泣きたいほどに悲しくなる。
それが表情に出るのだろう。
聡いカカシは「お父さん」でも「ミナト様」でもなく、「兄さま」としか呼ばなくなった。
中忍試験を受けるためにミナトがカカシの担当上忍となり、「先生」という便利な呼称を得るまで、カカシは、ミナトが懇願しようとサクモが正そうと、「兄さま」で通した。

カカシはおれの子なのに。

ミナトは、サクモにも懇願し続けている。
結婚してください。
事実上も戸籍上も、カカシの父にしてください。
今夜も寝台でサクモの裸身をいだきながら、ミナトは切願する。
「おれ、年が明けたら、二十歳になるんです」
「おめでとうございます」
サクモは、うっとりと微笑み、ミナトの首に腕を巻きつける。
「誕生日プレゼントに、おれと結婚してください」
ミナトが続けると、面白い冗談を聞かされた、というようにサクモはくすくす笑う。
「私はミナト様の物です。所有物と結婚なんて有り得ません」
「あなたは、おれの所有物なんかじゃありません!」
ミナトは声を荒げる。
サクモは真顔になって、小首を傾げる。
「でも、私はミナト様の物ですから」
擦り切れた映画フィルムのように、何度も何度も繰り返してきた会話だった。
「カカシはおれの子です。おれを、カカシの父にしてください」
これにもサクモは蒼い瞳にただ疑問ばかりを浮かべて、いつもの答を返すばかりだ。
「カカシは私の子ですよ?」
「あなたとおれの子でしょう」
「いいえ。カカシは私の子です」
「父親はおれです」
「カカシは私が産みました。カカシは私の子です」
幸福に輝くような顔で、サクモは告げる。
ミナトは嘆息し、サクモの白い肌に指を這わせた。
サクモは、銀色の長い髪を揺らして、身悶える。

はたけサクモは美しかった。
美という概念が人の形になったら、サクモになるんだろうなあ。
しみじみと、そう言ったのは自来也だ。
しかし、サクモは、その美貌を生かした任務はこなさなかった。
木の葉の白い牙という別名も、チャクラを練って白光刀を操る姿からきたものだ。
くの一特有の幻術も得意とはせず、戦場の最前線で敵を屠ってきた。
あいつは美しすぎて、かえって女とは思えん。
そうサクモを評したのは、同じ女性である綱手である。
綺麗すぎると、かえって色気なんて無くなるものね。
そう笑ったのは、自来也、綱手と共に三忍と呼ばれる大蛇丸だった。
それらの言が、人々の心を代表していた。
だから、サクモが、その姿にそっくりな赤ん坊を抱いて、長期任務から戻ってきたときには、誰もが、三代目火影や相談役さえ仰天してひっくり返った。
父親だ、と名乗り出たのは、近来稀に見る天才として既に上忍になってはいたものの、まだ十四歳でしかない波風ミナトだった。
時期的に、父親はおれしか無いです。
誇っているようなミナトに、三代目も師の自来也も絶句したきりだった。
ようやくと気を取り直し、ミナトの年齢が年齢とはいえ、子まで生まれているのだから、とサクモと祝言を挙げさせようと大人たちが段取りをくんだところ、サクモは、あの言葉を発したのだった。
「私はミナト様の物です。所有物と結婚なんて有り得ません」
「カカシは私が産みました。カカシは私の子です」
誰が出てきて、どう宥めようと、なぜそんなことを言われるのかわからない、という表情で、サクモは同じ言ばかりを繰り返した。

そのまま、年月は流れていった。
ミナトは、「ただいま」と言って、はたけの屋敷に戻る。
「お帰りなさい」とサクモとカカシが迎えてくれる。
だが、サクモは、ミナトが一緒に暮らしている、とは言わない。
ミナトの性の要求を、サクモは拒まない。
高温にあぶられた飴のように、自在に美しい身をくねらせ、ミナトの望むがままの快楽をくれる。
だが、サクモは、性行為を理解してはいない。

狂っているのか、いないのか、二つに分類するなら、狂っているのだろう。
だが、狂っているのがサクモなのか、自分なのか、ミナトには判別がつかない。
あるいは、狂っているのは世界のほうなのか。

年上の、美しいひと。
ミナトはサクモに恋をして、身をつないだ。
ちょうど月満ちる頃、サクモは赤ん坊を抱いて、長期任務から帰還した。
木の葉の里の者で、サクモが腹を大きくしている姿も、出産した現場も、見た者などいない。
帰還後、サクモは元通り、木の葉の白い牙として戦闘任務を請け負っている。
その技はますます冴えわたり、勇名を轟かせ、里を潤す人材であり続けている。

「ほんとうに、サクモ先生は、カカシを産んだんですかね」
それを音にして口の外に出したのは、サクモの教え子であるスリーマンセルの一人、奈良シカクだった。
彼は、高い知能と鋭い分析力で知られる忍者に成長していた。
「おれ、女の体なんてよく知ってるわけじゃないし、もちろん! サクモ先生の裸なんて見たこともないすけど。サクモ先生て、あれ、子供を産んだ身体なんでしょうか」
「でも、カカシは、サクモさんの分身みたいに瓜二つだよ。瞳の色以外はだけど。それに、おれ、身に覚えがあるし」
「ミナト先輩の、そっちの早熟の天才ぶりを疑いやしませんよ。けど、あそこまでそっくりなのも、なんだか妙な気がするんです」
妙だと言い出したら、妙でないものなど無い。
ミナトは、口をつぐむ。

サクモとカカシ。
母子というよりも、同じ羊水の中につかっているようだ。
あたたかな、やさしい世界に、サクモとカカシだけが存在を許されている。
どんなに叫んでも、サクモの身を穿つとも、ミナトは皮膜を通して見つめることしかできない。

カカシはおれの子なのに。

サクモは、カカシを飾ることが好きだ。
高価な服を着せたり、宝石を纏わせるわけではない。
丁寧に髪をくしけずり、季節、季節の花を、サクモと同じ銀色の髪に挿す。
赤い花、白い花。
黄色い花、青い花、紫の花、黒い花。
「カカシは美人になる」
満足そうに呟き、サクモはカカシを抱きしめる。
「そうですね。サクモさんにそっくりだもの。美人にならないわけがない」
ミナトは言い、カカシごとサクモを抱きしめる。
サクモは驚いたような表情で、ミナトを振り返る。
「私になんて、ちっとも似ていません。私に似たら、美人になんてなりませんよ。見て下さい。カカシの黒い、綺麗な瞳。なんて綺麗なんでしょう」
サクモは、カカシを女の子だと思いこんでいる。
サクモは、自分が美しくなどないと思いこんでいる。
サクモは、カカシを産んだと思いこんでいる。

狂っているのか、いないのか、二つに分類するなら、狂っているのだろう。
だが、狂っているのがサクモなのか、自分なのか、ミナトには判別がつかない。
あるいは、狂っているのは世界のほうなのか。

ミナトは想像する。
黒い瞳の男を。
その男を恋焦がれるサクモを。
恋に狂った美しすぎる女を。
それだけの、哀れな女なら良かったのに。
男の色を受け継いだ自分の身代わりのような存在を作りだしてしまえるくらいには、サクモは優秀な忍者だ。
金色の髪と青い瞳と、サクモには何の感慨も呼び起こさないであろう色しか持たない自分も、ばかみたいに優秀だ。
そして、サクモに恋焦がれて、狂っている。
サクモの望みなら、術や精を盗みとられても、その事実に一生、気付かないでいることだって出来る。

カカシはおれの子なのに。

幸福な家族のように、サクモとカカシとミナトは食卓を囲む。
幸福な家族のように、他愛ない会話を弾ませる。
食べるのと語るのを同時にやっていたカカシの頬に、ご飯粒がついた。
「カカシったら。ほっぺたにお弁当がついてますよ。かあさまが、ぱくってしましょうね」
サクモが紅い唇を寄せ、カカシの白い頬から、違う種類の白い色のご飯粒をなめとる。
それを見ていたミナトは、全身の血が逆流するような感覚を味わった。
サクモは妖艶に笑んで、ミナトに見返る。
「ミナト様も?」
細く白い腕を、サクモはミナトの首に絡ませて、唇を頬に寄せる。
桃色の舌が、ミナトの頬をなめとった。
幸福だ、とミナトは思った。

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