糸をほどく
アカデミーからも繁華街からも離れた、里の中でも閑静な地域に、はたけの家はあった。
広い庭に、忍犬が何匹も走りまわっている。
小さな男の子が笑い声をたてて、いちばん大きな犬に抱きつく。
波風ミナトは、口許を綻ばせた。
戦闘の使役としてだけではなく、はたけサクモとカカシの親子は、忍犬をペット、というより家族のように扱っている。
忍犬のほうも、任務ではなくても、こうして、ただカカシと遊ぶためだけによびだされても、文句は言わないらしい。
「カカシくん」
ミナトが声を掛けると、カカシはびっくりしたように黒い瞳を見開く。
「ん! おれまで忘れちゃった?」
カカシは犬から離れ、駆けだす。
ちょうど、玄関口から出てきた、長い銀色の髪を背で束ねた男に抱きつく。
男は、戸惑ったようにミナトを見る。
「あの…」
「ご無沙汰してます、サクモさん。三代目からの勅命で、今回のカカシくんの事態に対処するべく参りました波風ミナトです」
顔にはいつもの笑みを浮かべて、言葉だけは仰々しくミナトが言うと、サクモは、ほっとしたような息を吐いた。
「では、術ではない、と?」
ミナトは、青い目を眇める。
「はい。全ての解は試みたのですが、さっぱりと」
サクモは、膝で眠ってしまったカカシの銀色の髪を撫でる。
カカシを産んですぐにその母が没し、サクモは任務で家どころか里を空けることも多かったので、他ならぬミナトが、誰よりもカカシの面倒をみてきた。
一時期は、はたけ家に一緒に住んでいた。
最近は、ミナトも里外任務に出ることが多く、サクモとも五歳で下忍となったカカシとも、会うこともままならなかった。
だが、サクモの次に、ひょっとしたらサクモ以上に、カカシと過ごしてきた時間が長いということで、ミナトが呼び寄せられたのだった。
幼いながら、天才的な忍者の才能を発揮していたカカシが、全ての記憶を失ってしまった、ということで。
口もきけなくなり、サクモに纏わりついて離れない。
原因は全くの不明で、サクモも里も弱りきっていた。
ミナトも先刻から、カカシが好きであったものや、共になしたことや、様々なことを話しかけたのだが、カカシは人見知りするように父の服の裾を握るばかりで、とうとうその膝で眠ってしまった。
「或いは、これが普通なのかもしれませんよ。今まで、大人と同じに、任務ができるほうが変だったんですよ。このまま、こどもをやり直すのでも、いいじゃありませんか」
ミナトは、カカシ以上に不安になっているらしいサクモを落ち着かせるため、殊更に明るく言う。
「このまま、やりなおしていけるのでしたら…。もし、記憶中枢そのものに問題があるのだとしたら?」
サクモは、カカシより少し淡い色の瞳でミナトを見つめ、不意に、カカシを抱きしめた。
「このこに父だと認めてもらえなかったら。カカシがいなかったら、私は生きていけない」
「サクモさん」
静かに名を呼び、ミナトはその肩に手を置く。
「大丈夫ですよ。おれも全力を尽くします。あなたが、そんなに思いつめていてはいけませんよ。ん! まずは、腹ごしらえ、しましょうか」
ミナトは悪戯っ子のような笑顔をし、厨に向かった。
一時期は住んでいたのだから、勝手知ったる他人の勝手である。
ミナトがいたとき以上に、調理器具が使いこまれている様子は無い。
「やれやれ。カカシはともかく、サクモさん、ろくに食べてないね」
口に出して言い、ミナトは備蓄食糧で料理を始めた。
後で、生鮮食品を仕入れてこなくてはならないな、と思いながら。
思い出した様子ではなかったが、カカシは徐々に、ミナトに懐いてきた。
同時に、サクモの態度もほぐれてくる。
ミナトは、明るく、カカシと接しながら、解決策をさぐる。
カカシの身体にも、チャクラにも、経絡にも問題は無い。
心理的なものだろうか。
それにしては、直接的な原因が見たらない。
直前の任務も、それまでと変わりがあるものではなかった。
古来からの文献を漁っても、古老の話を聞いても、治癒の糸口が見つからない。
さすがにミナトも、焦燥を感じはじめた。
ミナトの苛々を感じとったものか。
カカシが抱きついてくる。
「大丈夫だよ」
ミナトは、その身を抱きあげ、柔らかな頬にキスをする。
カカシは、擽ったそうな笑い声をあげた。
ミナトは今、サクモの不安を知る。
このこに忘れられたら。
確かに、生きていけない。
強く、カカシの小さな身を抱きしめる。
「カカシ、カカシ、おれを忘れちゃ、だめだよ」
願いを言葉にする。
カカシのチャクラが揺れた。
唇が、物言いたげに動く。
ミナトは待った。
だが、とうとうカカシの言葉は出てこなかった。
ため息をつくかわりに、ミナトはカカシの身をもう一度、抱きしめた。
「あまり、無理をなさらないでください」
深夜、巻物の古代文字を睨んでいるミナトに、サクモがそっと言って、茶を置いた。
「木の葉の白い牙にお茶を煎れていただくなんて、光栄ですね」
ミナトは屈託なく笑う。
「ん! おれが元気になるいちばんは、お茶じゃなくて、サクモさん自身ですけど。キスの一つもしてもらえたら、百里だって駆けますけどね」
ミナトは、以前のような冗談を言う。
気持ちは、冗談ではなかったが。
ミナトは、サクモに恋していた。
ずっと、ずっと恋してきた。
しかし、それをサクモは、こどもの戯れとしか取らず、笑って、いなすばかりだった。
この家を離れたのは、それが辛かったという要因もある。
今でも、ミナトの心はサクモにある。
久しぶりに口にしてみたけど、また、笑ってすまされるのだろう。
そう信じていたのに、サクモの顔は真剣だった。
ミナトは、思わずサクモの肩を抱き、その唇を奪った。
サクモは抗わなかった。
まるで、ずっとこうしてきたように。
すぐに唇を離し、ミナトは、まじまじとサクモを見つめる。
「何か、何か、前と違いますか?」
不安そうに、サクモがミナトを見る。
突然に、絡んだ糸がほどけた。
一本の糸となる。
ミナトは、サクモを抱きしめた。
骨も砕けそうな力で、抱きしめた。
「記憶を失ったのはカカシじゃない。あなただったんですね。サクモさん」
サクモは目を見開き、すぐに伏せた。
それは、無言の肯定だった。
術でも、薬でも、自身の不調でもなかった。
原因は不明のまま、サクモの過去は奪われた。
真っ白な状態のまま、優秀な忍者だったサクモは、サクモのデータを暗記し、日常と任務をこなしていた。
カカシは、父の状態を写し取っていたのだった。
ミナトは、時空間忍術の一種でサクモの精神に入り込み、偶然が積み重なって作動した封印を解いた。
サクモの復調と共に、カカシも戻った。
「サクモさん、また忘れてる。おれはあなたの恋人ですよ」
ミナトは、怒ったような顔で言う。
皆からおそれられる白い牙とは思えない弱々しげな表情で、サクモは答える。
「恋人ではない、と記憶しているのですが」
「いいえ。恋人です。ちゃんと、おれは見てきたんです」
ミナトが胸を張ったら、サクモはそれ以上、反論できない。
「先生。オレの恋人は?」
幼いカカシが、無邪気に尋ねる。
「それは、おれは見てないよ。カカシくん自身がさがしなさい」
「はい」
「ん! カカシは素直でいいこ」
ミナトは、カカシを抱きあげ、頬に口付ける。
カカシが復調してからも、その習慣は失われなかった。
「さ。お父さんのほうも」
ミナトは、サクモを腕に囲い、親愛ではなく、恋人のキスを唇にした。
「身体が覚えておくのが、いちばんですからね」
最近の口癖を、言ってから。
忘れない。
忘れさせない。
糸が絡まったなら、何度でも私がほどこう。
その身体と一緒に。
ぱくがま様に捧げます。
555555リク、ありがとうございました!