始まる前

「古市、バカだけど成績はいいのに、なんで石矢魔に行くんだ?」
男鹿辰巳はスルメを齧りながら、真顔で古市に問う。
「はあ? 受験も終わって、入学手続きも、入学説明会も済んだ今になってきくか?」
古市は、眉を八の字にして疲れた顔で返した。
「今、気が付いたからだ。古市、バカめ」
くしゃくしゃとスルメを口の中に片付け、足だけを口の外に出して、男鹿は偉そうに言う。
「バカはおまえだ。おまえ、俺がいなかったら、高校卒業なんか、出来ねえだろうよ」
「バカと言ったほうがバカだ。だから、今、バカと言ったおまえがバカだ」
「俺が一回、バカって言う間に、おまえは何回、言ったよ! 男鹿!」
「やっぱり、おまえがバカだな。古市」
ごくん、と喉を鳴らして、スルメの足の先まで飲みこみ、男鹿は腕組をした。
家が近所で、幼稚園から同じで、親同士もよく知っていて、気が合うとか合わない以前から、一緒にいる。
互いの部屋を出入りするにしても、家族よりも気を遣いやしない。
自分の部屋に男鹿が居て、自分の寝るベッドの上で、胡坐をかいて腕組みしながらスルメを食われても、怒ることも出来ない。
仲が良いからではない。
男鹿が、オーガと呼ばれるほど喧嘩が強いからでもない。
「古市。おまえが、俺がいないと駄目なんだろう? バーカ」
それまでと、全く声音を変えず、男鹿が言った。
古市は、表情を失って、男鹿を見た。
まさか。
男鹿は気付いたのか?
気が合う合わない以前から傍に居る、親友という言葉も気恥ずかしい、そんな存在だったはずのに。
乱暴者とばかり思われている男鹿の、人の好さや純粋さが危うくて、不承不承、保護者のつもりでいたはずなのに。
「おまえ、俺がいないと、昼の購買でパン、買えないもんな」
男鹿は、ふん、と鼻息を吐く。
古市は肩を落とした。
「あのな。中学と違って、近くにコンビにもあるし、昼だけパン屋が売りにくるんじゃなくて、購買もある」
「そうなのか!」
ぐりっと男鹿は目を剥く。
知らない者が見たら、凄んでいるようにしか感じられないが、これは単に驚いているだけだ。
「受験んときの下見と。説明会と! 校内見学、したろうが」
「そんなことは知らん」
「知れよ!」
ツッコミを入れながら、男鹿が気付くわけはない、と古市は苦笑した。
何万年、経とうが、男鹿が古市の気持ちに気付くわけが無い。
そして、気付く必要は無い。
「じゃあ、古市は、俺を好きだから、一緒の高校に行くのか」
先刻までと変わらない表情で、声で、男鹿は言った。
一瞬、息を止め。
目を閉じて。
深呼吸をし。
古市は言った。
「そうだ」
男鹿は笑った。
「古市は、やっぱりバカだ。バカを好きな奴はバカだぞ」
「なんだよ! その理屈。あのな、俺の好き、は」
古市は、ベッドにのぼり、男鹿の傍に両手をついて、にじり寄った。
そのまま、距離を無くすまで近づいて。

スルメの味がした。
口じゅう、スルメの味がした。

男鹿は、それまでと全く変わらない口調で、バカ、とだけ言って、部屋を出ていった。
古市は、ベッドに仰向けに転がる。
「さっいあく」
スルメ味のファーストキスなんて。
男鹿なんかを好きになってしまうなんて。
いつのまにか。
いつのまにか。
ああ、もう。
彼女を作ろう。
誰でもいい。
どうやら、自分は見てくれが良いほうらしく、けっこう向こうから告られていた。
今までは断ってたけど、これからは断らない。
デートしまくろう。
ちゃんとしたキスもしよう。
「俺、ほんと、バカだわ」
泣いていいのか、笑っていいのか、わからなかった。

入学した高校では、それまで通りに顔を合わせていたが、それから、しばらく、男鹿が古市の部屋に来ることはなかった。
どちらも、あの一瞬は、無かったことのように、振舞っていた。
男鹿は、ほんとうに忘れているだけかもしれないけど、と古市は思う。
そして、古市は己に誓ったとおり、女の子との付き合いにいそしんでいた。
その日もデートの準備に余念がないところに、男鹿が部屋に上がりこんできた。
「あのな、心優しい若者がな」
前置きも何もなく、語りはじめる。

始まる。

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