終わらない夏

明日から夏休みが始まるという日、よつばちゃんとお父さんが隣に引っ越してきた。
よつばちゃんは不思議で、元気で、楽しくて、よつばちゃんのお父さんも、お父さんの友達のジャンボさんも、普通のおとなの人とはちょっと変わっていて、私や、私の友達のみうらちゃんとも真剣に遊んでくれるのだった。
よつばちゃんは、この町にきて初めてがいっぱいだったみたいだけど、私も、その夏休み、たくさんの初めてをした。
蝉を取ったり(そのときに軽トラックの後ろに乗ったのも初めてだった)、魚釣りに行ったり、星を見にいったりした。
初めてじゃないけど、花火大会やプールや海や、すごく楽しかった。
だが、わくわくすることばかりの夏休みの日記には、書けない、誰にも言ったことのない「初めて」もあった。

格好いいっぽい男の人だった。
後で、よつばちゃんのお父さんの友達で、やんださんという人だと知った。
よつばちゃんは居なかった。
真昼の、暑い時間だった。
私は、外から帰ってきて、家に入ろうとして、男の人と、よつばちゃんのお父さんが言い争っているのを見た。
男の人が、よつばちゃんのお父さんの腕を、ぎゅっと掴んだ。
ジャンボさんとビームを飛ばしあっているのとは全く違う、怖い顔をして、お父さんはその人の手を払った。
よつばちゃんのお父さんは、おとなの男の人という感じがしなくて、お父さんと言っているけれど、うちのお父さんなんかとはぜんぜん違う雰囲気の人だった。
よつばちゃんのお父さん、でしかない人だと思っていた。
そんな怖い顔をするなんて、想像もできなかった。
男の人が、もう一度、よつばちゃんのお父さんの腕を掴んだ。
そのまま、家の中に入った。
私は、心臓がどきどきして、慌てて家の居間に駆けこんだ。
お父さんはもちろん仕事で、お母さんもあさぎおねえちゃんもいなかった。
風香おねえちゃんならいるかもしれないと思って、二階の部屋に走っていった。
風香おねえちゃんの部屋の窓の向こうに、よつばちゃんのお父さんがお仕事する部屋が見える。
おねえちゃんは、いなかった。
ガラス越しに、向こうの光景を、私だけが見た。
さっきの男の人が、よつばちゃんのお父さんの両手首を掴んでいる。
お父さんは、やっぱり怖い顔をしている。
男の人が、よつばちゃんのお父さんの首を噛んだ。
距離があるのに、なぜか、はっきりと見えた。
そんな酷いことをされているのに、よつばちゃんのお父さんは、怒った顔をしなかった。
よつばちゃんのお父さんは、目を、閉じた。

その後、自分がどうしたのか、よく覚えていない。
気がついたら、帰ってきたお母さんとアイスを食べていた。
見たことは、どうしてかわからないけど、絶対に誰にも、もちろん、よつばちゃんにも言ってはいけない気がして、ほんとうに誰にも言わなかった。

その男の人、やんださんも、しょっちゅうお隣に遊びに来て、私たちとも仲良くなった。
普通のお兄さんだった。
普通に、話した。
見たことは、本の中の出来事みたいに思えた。
だけど、何かを私は表していたのだろう。
実は人の気持ちに敏感で、優しいよつばちゃんが「えな、やんだは、わるいやつだ。あんしんしろ。よつばがたおす」と、わざわざ私にだけ言いにきたのだから。

よつばちゃんとよつばちゃんのお父さんは、現れたときと同じ突然さで、この町から引っ越していった。
一度だけ、よつばちゃんから絵葉書がきた。
どこかの外国の町からだった。
私は、長い長い返事を書いた。
返事の返事はこなかった。
また別の、外国の町に行ってしまっていたのかも、しれない。
よつばちゃん達がお隣にいることには、次の日には慣れてしまったのに、よつばちゃん達がお隣にいないことには、すぐに慣れることが出来なかった。
よつばちゃんの分もおやつを買うことを、なかなかやめられなかった。
お隣のよつばちゃんちは、よつばちゃんちではなかったから、ある日、解体作業が始まって家は無くなった。
別の家が建って、別の人たちが引っ越してきた。

長い長い時間がたって、私は、あの家をはなれて家族を持った。
今は、やんださんが、ただ悪い奴でないことを知っている。
いや、悪い奴だけれど。
よつばちゃんにとって、もっとも悪い奴だけど。
「とーちゃんをうばうひと」と、よつばちゃんも本能で知っていたんだろう。
たぶん、やんださんは、よつばちゃんからとーちゃんを奪えはしなかっただろうし、やんださんのほうに同情する気持ちもわくくらい、私も年をとった。
いまだに、誰にも語ることはないけれど。

また、夏が来る。
何度でも、夏が来る。
チャイムが鳴った。
私は、慌てて玄関に出る。
「となりにひっこしてきました。おまかいもしませんが」
小さな女の子が、元気な元気な声で言った。
あの夏休みは決して終わらないのだな、と私は思った。

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