獄寺隼人が差しだした書類を一瞥してから、ザンザスは視線を上げた。
豪奢な机をはさんで、座ったままの赤い瞳が、立っている獄寺を射抜く。
背筋がぞくり、とした。
リング争奪戦から、4年の時が過ぎている。
未だに嫌だ嫌だと言いながら、沢田綱吉は、学業の合間にボンゴレの仕事をこなすようになり、右腕を自認する獄寺もイタリアと日本を往復する日々を送っていた。
ヴァリアーは、謹慎と組織の権限剥奪を受けながらも、ヴァリアークオリティを発揮する体勢に戻っていた。
獄寺にもわかっている。
事実上、十代目を継ぐ綱吉を強力にサポートしているのは、ヴァリアーであり、そのボスであるザンザスだ。
それでも、獄寺は、ザンザスに対する恐怖と嫌悪を完全に消すことが出来ない。
まだ、リング戦を完全に許すことが出来ない。
「なぜ、わざわざ、これをオレのところに持ってくる?」
ザンザス特有のどこか人を蔑むような低音で、その言葉が発された。
「ヴァリアーの、長のサインが必要だ」
獄寺は、なるべく感情を押し殺した声で答えた。
声変わりはとっくに終わっている。
先だっての誕生日で、イタリアでは成人とされる年を迎えた。
ザンザスごときにびびったりするものか。十代目の右腕として。
獄寺は、腹に力を入れた。
「うちの副ので充分だろ」
長い指で、ザンザスは紙をはじく。
「充分なんだけどな。ヴァリアー副長の剣豪は、うちの剣士と勝負に出かけてしまいました」
スクアーロに引っ張られて、困ったふうでいながら、その実、嬉しそうに行ってしまった山本武への恨みも蘇る。
「は。いざというときに役に立たねえカスザメだ」
ザンザスは笑い、ペンを執った。
]を二つ持つ名を、さらさらと綴る。
なぜとはなく、獄寺はその指先に見惚れた。
実際のところ、ヴァリアー側で、獄寺も含めて十代目ファミリーと接するのはスクアーロとルッスーリアであることが多く、サインもスクアーロが為すことがほとんどだった。
スクアーロらしいSの字が躍るようなサインを、獄寺も見慣れていた。
「何か、問題があるか?」
ザンザスの名を凝視している獄寺に、ザンザスはかすかに苛ついたような声を出す。
「いや、何も。あんたのサイン、こんなだったんだなって思っただけで」
「ああ、こんな、だ」
柔らかい声が答えた。
獄寺は、思わずザンザスの顔を見た。
意外なほど、優しい笑みを浮かべていた。
だが、それは一瞬で消え、唇の片端だけを上げ、またどこか嘲るように言った。
「女学生みてえな顔をしてるぞ。惚れた男の名前を見たときのな」
「な! んなこと、あるわけねえ!」
髪を振り乱し、獄寺は机に両手をついて身を乗り出す。
す、とザンザスが立った。
獄寺は急速に背が伸びていて、山本を追い越すほどだったのだが、それでも、ザンザスのほうが高かった。
節の目立つ長い指を、ザンザスはのばして、獄寺の顎を掴む。
「バンビーノ。あまり可愛い顔をするな」
「俺はもう18だ! ガキじゃねえ! てか、何、言ってんだよ!」
最近は使い慣れて、先に口から出てしまう日本語で思わず言ってから、イタリア語で同じことを言いなおす。
喉を鳴らして、ザンザスは笑った。
「二回も言わなくても、日本語がわからねえ奴はヴァリアーにはいねえ」
「そ、りゃ、そうだけ、ど」
軽く子供あしらいされているようで、獄寺は悔しくなる。
「18、か。大人になって、何かいいことがあるか?」
ふ、と真顔でザンザスが問う。
「別に。いまさら変わることも、ねえよ」
不機嫌な表情で、獄寺は答える。
日本ではまだ未成年で、日本にいることが格段に多い獄寺に実感されることは、実際、無い。
「そうだな。今日は昨日の続きで、明日は今日の続きだからな。てめえにはな」
「だから、さっきから、何を」
言い終えることが出来ず、獄寺は息を呑んだ。
ザンザスの顔が近い。
大人の男だ。
傷痕さえもアクセサリに思わせるほどに強烈な、戦う雄の顔だ。
「鮫と同じ色かと思ってたが。光の角度で緑になるんだな」
ザンザスの呟きは、自分の瞳のことを言っているのだと、獄寺にはわかった。
だが、次の行動はわからなかった。
自分の唇に、ザンザスの唇が触れた?
何?
新たな宣戦布告?
嫌がらせ?
それにしては、どうして、この赤い瞳が優しい?
なぜ、空気が柔らかい?
なぜ、時が止まった?
「う゛お゛ぉい!! 爆弾小僧、わりいな。うちのボスさんが大人しくサインなんかするわけねえなぁ」
騒々しく扉が開き、もっと騒々しい声が室内に満ちた。
ザンザスが、無言で花瓶をスクアーロに投げつけた。
「何しやがる!」
「黙れ、カス」
ますます声を大きくするスクアーロとどんどん不機嫌さを増していくザンザスを部屋に残し、獄寺は扉の外に出た。
山本が、顔の前で両手を合わせる。
「獄寺、悪かった。サイン、スクアーロが思い出したの、さっきなのな」
「ああ、ザンザスに貰った」
「へえ。そっか。じゃあ、慌てること、なかったな」
山本は、彼らしい笑顔を見せた。
少年も、大人も。
まだ知らない。
彼ら自身の感情を。