夜が明ける。10
 
 少年だった重原が、若い広臣にナイフで切りつけてくる。
 銀色。
 広臣は動じなかった。
 襲撃者である重原のほうが、泣きそうな顔をしていた。
 零は、そんな表情はしていない。
 だが、あのときの重原と同じように、零は零自身を傷つけようとしているのだと、明夜にはわかった。
 
 ナイフの切っ先が、明夜の左手をかすめる。
 明夜は避けなかった。
 その感触に驚いたように、零は立ちすくんだ。
 うまく出ない声で、明夜は零の名を呼ぶ。
 
 零の硬直が解けた。
 今度こそ零は、あのときの重原と同じような表情になった。
 緩慢に、ナイフを自分の頚動脈に当てる。
 
「駄目だ!」
 明夜は叫んだ。
 傷もかまわず、零の腕を握りしめ、ナイフを取りあげる。
「駄目だ。死ぬなんて、絶対に駄目だ!」
「ぼくなど、生まれてもいないような存在なんです。死んでも何も困らない」
 零は、夢で呟く者のように言う。
 普段の彼になく、明夜は声を荒げた。
「そんなわけ、ないだろう! 広さんと妙さんの赤ちゃんが流産したとき、広さんも妙さんもどんなに悲しんだか。広さんが声をあげて、泣いたのを見たのなんて、俺、あのときだけだよ」
 零の腕を掴む力を、明夜は強くする。
「俺も、すごくすごく悲しかった。一緒に泣いた。理屈じゃない。
 悲しいんだよ!
 生まれなかった子を失ったって、こんなにこんなに悲しいんだ。辛いんだ。生きてる人間が死んだら、どんなに苦しくて悲しいか!」
「でも。ぼくには、悲しんでくれる人は……」
「ばか。お父さんとお母さんが悲しいよ。産んだ人が、悲しいに決まってるよ! そうじゃなくても、そうだ! 人から生まれてない俺だって、死んだら悲しまれるんだよ!」
 零は、ぽかんとして、明夜の顔を見る。
「俺はね、研究所の機械と器具のなかで出来た。遺伝子上の父や母もいない」
「……そんなこと」
「有り得ないと思う? そうだよね。世間には発表されない。どこの国の倫理も許すわけない。でも、俺は、そうなんだ」
 明夜は微笑する。
「それも、失敗作だったから、身の養分だけはもらえたけど、ぜんぜん、人でなんか、なくて」
 零は絶句している。
「でもねえ、俺の実験に参加するために来た、研究員の広さんが、ガキがほしけりゃ女の口説き方を覚えやがれ、って言って、俺をかっさらって研究所を脱走して、それで、プロジェクトは終わり」
 明夜は、笑みを濃くする。
「俺を産んだのは機械だけど、でも、俺がこの世に生きてるってことには、ちゃんと意味があるってこと、俺は知ってる」
 一度、言葉を切り、明夜は少し身を屈めて、零の顔を真正面から見る。
「君も絶対に知ってる。気が付いてないだけ」
「気がつけるでしょうか」
 細い声で、零は言った。
「うん。必ず」
 明夜は、零の腕を離した。
 落ちたナイフにちらりと目をやってから、出入り口を振り返る。
 赤尾の長身が、ゆっくりと近づいてきた。
 明夜の腕を取り、辛そうに言う。
「怪我は」
「大丈夫、かすっただけです。風呂屋にも行けます」
 明夜は、にっこり笑う。後の部分は、赤尾には通じないことを知りつつも。
「すまない」
 きっちりと赤尾は、明夜に頭を下げた。
「これは傷害だ。警察に」
「行く必要はないですよ。少し、悪ふざけが過ぎただけ」
 わざとのように、軽く明夜は言う。
「すまない」
 もう一度、赤尾は謝罪した。
 ここ最近の、赤尾の声とも態度とも一変していた。
 何かがふっきれたように。昔に戻ったように。
 微かに笑い、赤尾は明夜に向かう。
「今、辞表を出してきた。研究室の片付けもすんで、借り出していた本を返しにきた。ここに来たのは、たまたまだ」
「そうですか」
「全てを失った。そう思った。人生を捧げ、何もかもを犠牲にしてやってきた研究と大学と、それをなくしたら、私には何も無い」
 明夜は、何か言葉を継ごうとして、できなかった。
 赤尾は、柔らかく笑っている。
「しかし、気付いたよ。私には私が残っている」
 ゆっくりと歩み寄って、赤尾は零の肩に手を置く。
「この子に、この子自身が残っているように」
 怖かったのだと思う、と赤尾は続けた。
  「この子が生まれたとき、今までの自分がゼロになると感じた。疎ましかった。どうしても名前を付けろと言われ、何もないという意味で、ゼロの零、と付けた。父と子として生きていくつもりなど、かけらもなかった」
 赤尾の手の下で、零が、びくり、と震えた。
「怖かったのだ。家族を早くに亡くした私は、どう接していいかわからなかった。愛されなかったから、愛しい者の愛し方を知らなかったんだ」
 おそるおそる、赤尾は零を抱く。
「だが、いい名を付けた。今になってみれば。無くしたわけではない。カウントをゼロにして、すべてを最初から始めるだけだ。……三田くんたちのように。零、始めてくれるか」
 嗚咽が洩れた。
 良かった、と明夜は安堵した。
 零は、泣くことができた。
 赤尾の言葉どおり、カウントゼロから始められる。
 自分たちのように。
 後は、父と子の時間だ。
 明夜は、そっとその場を立ち去った。
 その背に、すまない、と赤尾が三度目を言った。
 後ろ手を、明夜はひらひらと振った。
 気にしないで、という意で。
 
 
「一緒に寝ていいかな」
 明夜は、広臣の寝台のそばで言った。
 半身を起こして、分厚い綴りを読んでいた広臣は、怪訝そうに目を細めたが、優しく笑って、隣のスペースを叩いた。
「しゃあねえな。オレはおまえが世界一、可愛いんだから、しょうがねえわな」
 そこに潜りこみ、広臣の掌を髪に感じながら、明夜は目を閉じた。
 
 
 
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