夜が明ける。2

「でも、それに付き合ってくれるの、妙さんしかいないからって、広さん」
明夜は長机の席につき、女性ー春日妙子を上目遣いに見る。
妙子も明夜の前に座り、肩をすくめる。
「確かにねー。これに喜んで行くような人間は限られるからなあ」
広臣が寄越したのは、著名な映画評論家が初めてメガホンをとった作品のチケットである。
監督の映画への愛があまりに深すぎた故に、出来上がった映画は、奇妙奇天烈な筋の通らないものになっていて、それがかえってカルトな人気を呼んでいた。
「行く?」
明夜が問う。妙子は頷いた。
「うん。行きたいと思ってたのよ。凄く。実は」
「良かった。広さんも喜ぶ。やっぱり広さんと妙さんはお似合いだと思うよ」
「ん、私もそう思う」
「……よりを戻す気、ないの?」
「ない」
妙子は、きっぱりと言う。
「夫婦、恋人、なんてね、そんな括りがないほうが、いいのよ。私と広ちゃんは」
言のあと、なぜか妙子は遠くを見る目をした。
だが、明夜が語を継ぐより早く、元の表情に戻って柔らかく笑む。
「で、お使いあけちゃんだけなの? 執務時間終了の頃、院生連中が来るから一緒に飲みに行く?」
「今日はいい。ほんとに、これを届けに来ただけだから。この後、出版社で打ち合わせ」
「おお。ちゃんと一人で出版社に行けるようになったのね。えらい、えらい」
妙子はわざと大袈裟に言い、明夜のさらりとした髪を撫でる。
明夜は、やけに真剣な瞳で妙子を見る。
「あ、ごめん。いつまでも子供扱いしちゃ……」
妙子が言い終わるより早く、明夜が口を開く。
「おれね、自力でFAXもメールも送れるようになった」
「なあに?もっと褒めろって? えらいえらい」
妙子は、明夜の髪をくしゃくしゃにする。
妙は擽ったそうに、首をすくめた。

明夜が研究室から出たあとも、妙子は立ったまま手の中のチケットを見ていた。
悲しいとも優しいとも言いがたい表情で。
と、足音も荒々しく、入ってきた者があった。
体格のいい、高年の男性だ。
妙子は眉根を寄せる。
「赤尾先生……」
「今、三田明夜が来ていたな」
「それが何か」
明夜と対していたときとは同一人物とは思えないほど、冷たい声音を妙子は出す。
「三田が来たら、私のところに来させろと言っておいただろう! 事務助手風情が、私の命令をきけないのか! いつでもクビにして、かまわんのだぞ!」
赤尾はまさに怒鳴りつけるという様で、妙子に対する。
妙子は動じない。
「事務助手だから、きかないんです。私はあなたに研究者生命を断たれて、職も、論文を発表することもかないませんが、今は事務局に雇われている身ですから、教授会に、私の処遇をどうこうすることは出来ないんですよ。たとえ、赤尾先生が学科長の、主任教授でもね」
憎々しげに、赤尾は妙子を見る。
両の口角を、妙子はゆっくりと上げる。
「三田明夜は、あなたにどうこうさせない。そのために、私はここに居続けます。何を捨ててもね」
赤尾は、しばらく妙子を睨んでいたが、やがて無言で踵を返した。
完全にその姿が消えてから、妙子は息を吐く。
手の中で、チケットが皺になっていた。

「妙さん、元気そうだったよ」
コンピュータを操作している広臣の後姿に、明夜は声を掛ける。
「ふーん」
興味のなさそうな応答だった。
「映画、行くって」
「へー」
「あのね、褒めてもらった。頭を撫でてもらった」
「はん?」
広臣が振り返る。
「おまえに、褒められるようなところが、あるのか?」
「出版社に一人で行けるようになったから」
「……出発点が物凄く低いと、褒めるとこが、たくさんあっていいわな」
コンピュータを操作するときと、車を運転するときにだけ掛ける眼鏡を外し、広臣は明夜を見る。
「ま、妙子は俺の求愛を受けてくれたってことだな」
「……いつ、求愛したの?」
「チケットを渡して、それを受け取った。一緒に見に行く。これは求愛を受けたってことだ」
「…………違うと思う。たぶん」
明夜は、広臣の傍ら、床に膝を抱えて座る。
「よりは戻さないって断言した。妙さん」
膝の頭に、額をつける。
「おれも、また妙さんのこと、ねえさんて呼びたい」
明夜の髪を、広臣はくしゃりとした。
妙子と同じ仕草で。
「任せろ。精魂込めて口説いてくっから」
顔をあげて、明夜は広臣を見る。
広臣は、にやり、と笑った。
「で? 今夜は一緒に寝なくていいのか?」
「うん、いい。小説、書くから」
「そうか。ちゃんと寝ろよ。身体に悪いからな」
幼い子のように、明夜はこっくりと首を縦に振った。

「なんだ? やっぱり昨日から寝てないのか? わかった、今からでいいから、寝ろ! ああ、俺、今日は遅いから」
携帯を切ると、広臣は後部座席のシートにぐったりと凭れかかった。
「明夜さん、忙しいみたいですね」
ハンドルを握っている青年が、笑いを含んだ声で言う。
「あいつは、限度とか身体の仕組みとか、そういもんがわかんねえからな。っかしいよな。勉強は出来たんだがな」
「自慢しているようにしか聞こえませんね」
「っかしいな。俺の自慢の秘書は、耳に間違った変換装置を備えてやがる」
「お褒めにあずかり、どうも」
「褒めてねーよ」
「それは失礼しました。……失礼ついでに」
声のトーンが変わる。
「中原は社長の追い落としを画策しています。物証はありませんが」
「そりゃ、尻尾をつかまれるような真似はしないだろうよ、奴も」
広臣は、ネクタイをゆるめる。
「そんなことに頭を使ったってしょうがねえのに。俺から会社を取りたきゃ取ればいい。でも、そこまでだ。ソフトを作るのは俺だ。俺が俺である限り、優れて売れるものをまた作る。それで、金は儲ける。俺がいない会社だけあったって、すぐに駄目になる」
言いながら、大きく伸びをする。
「中原に会社をやっちまうのも、いいなあ。ここまで、でかくなっちまうと面倒くせえもんな。それで新しいの、始める。社員、おまえ一人から、また」
「雇ってくださるなら」
「おまえがいないと、会社なんか出来ねーよ。……少し、寝るわ。着いたら起こしてくれ」
言うか言わないかのうちに、広臣は寝息を立てはじめた。
「はい。……仰せのままに」
秘書は小声で呟き、ハンドルを握る手に力をこめなおした。

やっと少年と呼ばれなくなったくらいの年に見えた。
その彼を、赤尾は力任せに殴った。
「やめて。お父さん」
「お父さんなどと言うな!」
赤尾は怒鳴る。
「私にまるで似ていない。出来そこないの役立たずが」
再び、赤尾は彼を殴った。
「いいか。二度は言わん。失敗も許さん」
倒れた彼を立たせ、赤尾は命じる。
「三田明夜と懇意になれ。どんな手段を使ってもかまわん。そして、聞き出すんだ!」
彼には、諾と頷くことしか出来なかった。

夜が暮れていく。

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