夜が明ける。3
 
 電話を切った明夜は、困ったように寝台を見た。
 広臣の言い付けに従わないのは心苦しいが、精神が昂ぶって眠ることが出来ない。
 執筆のあとは、いつも、そうだ。
 明夜にとって書くということは、自分の意志で行うものではない。
 ある時、突然、頭の中にストーリーが出現する。
 その完成した物を、外に押し出すのが明夜の仕事だ。
 自分は何もしていない、と明夜は思う。
 労働といえば、パソコンに入力する部分だけだ。


 最初にそれを成したのは、十五のときだった。
 広臣のお下がりのパソコンで、小説を打った。
 寝食を忘れて打ちこんでいる明夜の様子を見にきて、広臣は作品を読んだ。
 そして、大手出版社が主催する新人賞に応募した。
 そのままデビューが決まった。
 精力的に活動するようになったのは、高校を卒業してからだったが。
ー広さん、これ、おれが貰う金じゃないよ−
 初めて原稿料を手にしたとき、明夜は泣きそうな顔で言ったものだ。
ーおれ、何も考えてないもの。勝手に頭の中に降ってきたんだものー
 広臣は、明夜の髪をくしゃくしゃにして、頭を撫でた。
ーほんっとに、おまえって馬鹿だよな。
 おまえの中にある物が、おまえの中で熟成して出来あがったのが、おまえの小説だよ。
 そういうふうに書けるのをな、才能ってんだよー
 広臣の言葉で明夜は、大学に行きながら書き続けた。
 去年の春、大学を卒業して専業作家になった。
ーおまえみたいな間抜けが、出来る仕事があるのか、俺は心配してたんだが。 ちゃんと、適所があるもんだわー
 そう、広臣は笑って言った。
 今はもう経済的に自立することが容易だが、明夜は広臣の元から離れることを考えたこともない。

 広臣が、明夜を「ひと」にしてくれた。

 未だ広臣の手に縋らずにはいられない。
 長い夜には、特に。


 眠ろうと思えば思うほど、眠れなかった。
 諦めて明夜はシャワーを浴び、出掛ける支度をした。
 広臣も遅いと言う。
 妙子に会いたかった。
 大学に、明夜は向かった。

 妙子が勤めている大学を、明夜は出た。
 指導教官だった赤尾教授は、大学院に進学することを強く勧めてきた。
 明夜は優秀な学生だったらしい。
 幼い頃から、行動がとろくて不器用だった明夜だが、勉強は出来た。
 だが、明夜は小説に専念したくて、院には行かなかった。
 それでも、親しかった友人が何人か進学し、妙子もいることから、卒業していたが、大学には折々に足を運んだ。

 正門を入り、小高くなった丘の上の創立者像を見上げ、いつもながらの感想を、明夜は抱く。
 どこかの独裁国家みたいだ。
 校舎を新築したときに据えられたのだが、卒業生としては、あまりいただけない。
 ぼんやりと像を見ながら中庭に入ったところで、気付いた。
 若い。というより幼い。
 大学生には見えない。
 少年であろう。
 だが、マニッシュな少女にも見える。
 性別も曖昧に見えるのは、その人物が、あまりに美しかったからだ。
 綺麗な顔。
 細身の均整のとれた身体。
 輪郭がくっきりとして、そこだけ光度が違うように感じられる。
 ここまで美しい人間というものを、明夜は今まで見たことがなかった。
 あからさまに見惚れている明夜だったが、それは彼だけではなかった。
 講義中のせいか、そんなに多くはなかったが、周囲にいる者は皆、その人物を見ている。
 そのひとと、明夜の視線が合った。
 そのひとは、まっすぐに明夜の前へ来る。
 明夜の鼓動が跳ねあがった。
 一瞬、知人であったかと知る顔を脳裏に巡らせたが、人の顔と名前を覚えるのが苦手な明夜でも、さすがにこれほどの美形は忘れないだろう。
 初対面のはずだ。
「三田明夜さん?」
顔から想像するより低めの、若い男の声で、そのひとは明夜を確認した。
「はい。三田です」
 戸惑いながら、明夜は答える。
「お願いがあるのですが」
 彼は言った。
 サインでも頼まれるのかな、と明夜はちらりと考えた。
 学内で、何度か見知らぬ学生に求められたことがある。
「あなたの秘密を教えてください。お願いします」
 何の表情も浮かべないで彼は、そう続けた。
 
 
 
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