電話を切った明夜は、困ったように寝台を見た。
広臣の言い付けに従わないのは心苦しいが、精神が昂ぶって眠ることが出来ない。
執筆のあとは、いつも、そうだ。
明夜にとって書くということは、自分の意志で行うものではない。
ある時、突然、頭の中にストーリーが出現する。
その完成した物を、外に押し出すのが明夜の仕事だ。
自分は何もしていない、と明夜は思う。
労働といえば、パソコンに入力する部分だけだ。
最初にそれを成したのは、十五のときだった。
広臣のお下がりのパソコンで、小説を打った。
寝食を忘れて打ちこんでいる明夜の様子を見にきて、広臣は作品を読んだ。
そして、大手出版社が主催する新人賞に応募した。
そのままデビューが決まった。
精力的に活動するようになったのは、高校を卒業してからだったが。
ー広さん、これ、おれが貰う金じゃないよ−
初めて原稿料を手にしたとき、明夜は泣きそうな顔で言ったものだ。
ーおれ、何も考えてないもの。勝手に頭の中に降ってきたんだものー
広臣は、明夜の髪をくしゃくしゃにして、頭を撫でた。
ーほんっとに、おまえって馬鹿だよな。
おまえの中にある物が、おまえの中で熟成して出来あがったのが、おまえの小説だよ。
そういうふうに書けるのをな、才能ってんだよー
広臣の言葉で明夜は、大学に行きながら書き続けた。
去年の春、大学を卒業して専業作家になった。
ーおまえみたいな間抜けが、出来る仕事があるのか、俺は心配してたんだが。 ちゃんと、適所があるもんだわー
そう、広臣は笑って言った。
今はもう経済的に自立することが容易だが、明夜は広臣の元から離れることを考えたこともない。
広臣が、明夜を「ひと」にしてくれた。
未だ広臣の手に縋らずにはいられない。
長い夜には、特に。
眠ろうと思えば思うほど、眠れなかった。
諦めて明夜はシャワーを浴び、出掛ける支度をした。
広臣も遅いと言う。
妙子に会いたかった。
大学に、明夜は向かった。
妙子が勤めている大学を、明夜は出た。
指導教官だった赤尾教授は、大学院に進学することを強く勧めてきた。
明夜は優秀な学生だったらしい。
幼い頃から、行動がとろくて不器用だった明夜だが、勉強は出来た。
だが、明夜は小説に専念したくて、院には行かなかった。
それでも、親しかった友人が何人か進学し、妙子もいることから、卒業していたが、大学には折々に足を運んだ。
正門を入り、小高くなった丘の上の創立者像を見上げ、いつもながらの感想を、明夜は抱く。
どこかの独裁国家みたいだ。
校舎を新築したときに据えられたのだが、卒業生としては、あまりいただけない。
ぼんやりと像を見ながら中庭に入ったところで、気付いた。
若い。というより幼い。
大学生には見えない。
少年であろう。
だが、マニッシュな少女にも見える。
性別も曖昧に見えるのは、その人物が、あまりに美しかったからだ。
綺麗な顔。
細身の均整のとれた身体。
輪郭がくっきりとして、そこだけ光度が違うように感じられる。
ここまで美しい人間というものを、明夜は今まで見たことがなかった。
あからさまに見惚れている明夜だったが、それは彼だけではなかった。
講義中のせいか、そんなに多くはなかったが、周囲にいる者は皆、その人物を見ている。
そのひとと、明夜の視線が合った。
そのひとは、まっすぐに明夜の前へ来る。
明夜の鼓動が跳ねあがった。
一瞬、知人であったかと知る顔を脳裏に巡らせたが、人の顔と名前を覚えるのが苦手な明夜でも、さすがにこれほどの美形は忘れないだろう。
初対面のはずだ。
「三田明夜さん?」
顔から想像するより低めの、若い男の声で、そのひとは明夜を確認した。
「はい。三田です」
戸惑いながら、明夜は答える。
「お願いがあるのですが」
彼は言った。
サインでも頼まれるのかな、と明夜はちらりと考えた。
学内で、何度か見知らぬ学生に求められたことがある。
「あなたの秘密を教えてください。お願いします」
何の表情も浮かべないで彼は、そう続けた。
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