夜が明ける。4
 
「秘密ってなに?」
 ただ不思議そうに、明夜は問う。
 少年は、生真面目に言った。
「あなたが隠していることを教えてください」
「おれが隠していること?」
 痴呆のように、明夜は繰り返す。
「あなたは何故、大学四年生であれだけの論文を書けたのか。
 何か特別な情報を入手しているのか。
 保護者の財力によって、かき集めた材料があるのか。
 その文章力にしても、誰か、強力なゴーストライターがいるのか。
 それを教えてください」
 感情がこもらない機械のような口調で、少年はいちどきに言った。
 明夜は呆然とした。
 
 
 店内には他に客がなく、バロック音楽だけが荘厳に響いていた。
 ひとくち飲んだコーヒーのカップを置き、明夜は真向かいに座った少年に目をやる。
 少年は飲み物に手をつけることもなく、明夜を見つめている。
 まるで理解できない言葉を並べる少年に、明夜は困り果てた。
 とりあえず、東都生が頻繁に利用する、その割に込みあうことの少ない、この喫茶店に連れてきた。
「ええと。君はおれの名前を知っているわけだけど。
 おれは君の名前を知らない。教えてくれる?」
 嫌がるかとも明夜は思ったのだが、少年は素直に名乗った。
「赤尾零です」
「あかおれい。れいって、どういう字?」
「雨かんむりの、零度など、セロという意味の零です」
 零は、明夜から視線を逸らさない。
「じゃあ、零くん。……ん? 赤尾って、ひょっとして赤尾先生の」
 明夜は、やっと思い当たる。
 自分に関わりのある、赤尾という姓に。
 零は頷いた。
「あなたの指導教官だった赤尾教授が、僕の遺伝子上の父です。
   彼は否定したいようですが」
「うーん、なんだか、ますます混乱してきた」
 がぶりと、明夜はコーヒーを飲む。
「よく、わからないけど、おれの秘密だかなんだかを知りたいのは、赤尾先生?」
 零は表情も変えずに、肯う仕草をする。
「ほんと、わかんないよー。
 さっき君が言ったような秘密って、おれには全然ないし。
 だいたい、ききたいことがあったら、赤尾先生が直接、おれにきいてくれればいいし」
 かすかに、零は首を傾げた。
「それは、助手の春日妙子が阻止しています」
「妙さんが?」
 明夜の声が高くなる。
「なんで、妙さんまで関係があるの?」
「春日妙子はあなたを守るために、自分の研究を破棄して、赤尾教授に対抗しています。
 そもそもあなたの保護者は、かの三田広臣ですから、教授にもやたらには手が出せない」
 明夜は、零を凝視している。
 零は、淡々と続ける。
「あなたの周囲は非常に堅固ですが、あなた自身は他人に対して警戒心が薄い。
 ですから、赤尾教授は僕に命じました。
 三田明夜と懇意になって、その秘密をさぐりだせ、と。
 けれど、僕は他人との接触が苦手なので。
 コンピュータでさまざまなシミュレーションをしました。
 あなたの性質からして、率直に尋ねることが、求める答を得る確率がもっとも高い、と結果が出ました」
「……それで、いきなり、おれをつかまえて、ああいうふうに言ったんだね」
 呟き、明夜は座席に身を埋もれさせた。
 目を閉じて、ぼそぼそと語をつなぐ。
「君のシミュレーションは正しいよ。たぶん。
 正直に言うよ。四年のときの卒業論文には、何の特別な事情も情報もない。
 赤尾先生の指導通りに調べて、考えて、書いた。
   今、書いている文章だって、他の誰も関係ない。
 妙さんも、広さんも、ましてや広さんの会社やお金なんて、まったく関係ない。論文にも小説にも」
 零は、じっと明夜を見つめていた。
 ハープシコードの音が流れる。
 静かに、零が息を吐いた。
「わかりました。それを事実だと、僕は認識します」
 言い、零が立つ気配がした。
 明夜が目を明けると、もう零の姿は無かった。
 飲み物代が、きちんと消費税分まで置いてある。
「ここ、内税なのに」
   思わず口に出し、明夜は戸口まで追ったが、その影もなかった。
 
 
 明夜には、自分がどこにいちばん打撃をうけているのか、わからなかった。
 恩師と呼ぶに憚りない存在であったはずの、赤尾教授が自分に対して抱いていた感情についてか?
 妙子が、自分のために窮地に至っていたということか?
 自分の論文、文章が、自分自身の力と認められていないことか?
 広臣の力だと考えられていることか?
 
 いや。
 
 明夜の心をいちばんに揺さぶっているのは、そこではなかった。
 零の言葉。まるで機械のような。
 零の存在。
 零が現れたこと。
 明夜は、零自身に心を揺るがせていた。
 
 
 
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