夜が明ける。5
 
「あけちゃん、どうしたの?」
 妙子の声がした。
 はっとして顔を上げると、窓の外が暗くなっていた。
 ずいぶん長い時間、我を失っていたことになる。
 妙子は明夜の前に座り、その額に掌を当てた。
「具合、悪いんじゃない? 顔色が悪いけど」
「妙さん、仕事、終わったの?」
 問いには答えず、尋ねかえす。
「うん。コーヒーだけ飲んで帰ろうと思って」
 東都の卒業生である妙子もまた、学生時代から、この喫茶店にはよく来ている。
 明夜も、妙子に連れられて初めて来たのだった。
「妙さん。ごめん」
 歯の間から、言葉を押しだす。
「どうしたのよ? あけちゃん?」
 妙子は、目を見開いている。
 弦が、切なげに鳴っていた。
 
 
 コーヒーのカップをソーサーに静かに置くと、妙子は深く息を吐いた。
「そっか。赤尾先生の息子。赤尾零、か」
「ほんとうに、ごめんなさい。おれ、何も知らなくて。
 おれのせいで……」
「あけちゃんのせいじゃないよ」
 妙子は、きっぱりと言った。
「私が、赤尾先生と喧嘩してるのも、早い話が干されてるのも、ほんと。
 だけど、それは、私自身のこと。
 むしろ私のせいで、あけちゃんに被害が及ばないように、頑張ってたんだけどね」
 もう一度、妙子は嘆息した。
 それから振りきるように笑い、明夜を真正面から見つめる。
「あけちゃんとひろちゃん、私、の関係は抜きにして、赤尾先生は私が気に入らなかったのよ。
 私の書いた論文が、彼の領域をおかして、超えるものだったからね。
 自惚れじゃなく、その論文を書いてから、赤尾先生は私に辛く当たるようになったから、核心をついたんだと確信したわ」
 洒落のつもりだったのか、妙子は悪戯っぽく笑う。
「でもね、私に、ほんとうの実力があって、ほんとうに優れた研究なら、
 どんなに赤尾先生が個人的に邪魔をしても、必ず世の中が必要とする。
 今、そうでないのは、私自身の力不足よ。
 誰にも関係ない。あけちゃんのせいなんかじゃ、全然、ないのよ」
「でも、妙さんが、おれを守るためにって……」
「それは、私自身とは別のところ。
 赤尾先生も見る眼は確かで、あけちゃんが書く物を自分のものにしたいのね。
 それが、ひろちゃんの力だと思いこんじゃってるし。
 あなたを駒にしたい、盗みたい。そのために、我が子をそんなふうに使うなんて、それこそ許せないけど」
「おれ、どういしたらいい?」
 明夜は、縋るような視線を妙子に送る。
「そのままで、いい。
 そのままでいて。書きたい物を書いて」
 妙子は、コーヒーのお代わりを注文した。
「私も今まで通り働き、独りで研究を続ける。
 ひろちゃんは、ソフトを作り続ける。
 あけちゃんは書きつづける。
 それだけ。
 ほんとうに必要で、優れたものだけが残るわ」
 新しくきたコーヒーに口をつけ、妙子は悲しそうな顔をする。
「赤尾先生もね、最初からああいう人じゃなかったんだよ。
 地道で、誠実な研究者だった。指導者としても、立派で」
「うん」
 明夜は、ただ頷く。
 恩師と呼ぶにふさわしかった。
 研究の方法も、人生への向き合い方も彼から学んだ。
 それは、もっと赤尾が若いときの教え子である妙子には、更なる想いであるはずだった。
「何を、焦ったのかなあ。
 何を求めてるんだろう。
 零くん、だっけ。可哀想だね」
 妙子の言葉で、明夜は零を思い起こす。
 美しいとしか言えない顔立ち。
 そして、機械のような物言い。
 明夜のうちに、せりあがってくる物があった。
 もう一度、零と接触を持ちたいという欲求。
 決して愉快とは言えない会話しかなさなかったのに、零にまた会いたいと感じている自分を、明夜は認めた。
 
 
 髪を撫でられる感触で、明夜は目を覚ました。
 網膜が時間をかけて、広臣の像を結ぶ。
「お帰り、広さん。遅いんじゃなかったの?」
 優しい手の動きが、軽く頭頂を叩くものになった。
「何万年前の話をしてんだよ。おまえ、丸一日、寝てたんだぜ」
「え? そんなに?」
 妙子と別れて家に戻り、そのまま寝台に入ったところまでは覚えている。 
「徹夜のあと爆睡ってのは、身体に悪いだろ。
 あんなに、ちゃんと寝ろってったのに」
「はい。ごめんなさい」
 ぼんやりしたまま、明夜は幼子のように謝る。
 広臣は、また明夜の髪を撫でた。
「妙子から聞いた。
 赤尾の爺の話は、俺も初耳だよ」
「赤尾先生、まだ爺って年じゃないよ」
「いいんだよっ。爺で。耄碌してんだからよ。
 ふてえ野郎だ。ぶっ殺しちまうのは簡単だが」
「やめてよー。広さんが言うと、冗談に聞こえないよ」
「と、妙子も言うから、とりあえず、調べてる」
「先生のこと?」
「ああ、くそ小生意気なガキも含めてな。
 俺の有能過ぎる秘書が、すぐに表も裏も洗いあげっから待ってろ」
 明夜は、重原安見(しげはらやすみ)の、いかにも切れ者らしい姿を思い浮かべた。
 
 
 
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