夜が明ける。6
 
 その頃、重原安見はいつもナイフをポケットに入れて持ち歩いていた。
 決して抜くことはなかったが、何か感情が激したときに、ポケットの中に手を入れてその柄を握りしめれば不思議と気分は落ち着いた。
 決して抜きはしない、と自分に誓っていたし、自信もあった。
 それなのに。
 なぜ、あの瞬間、刃を外に向けようとしたのだろうか。
 はっきりした理由など、今でも安見にはわからない。
 ただ、結果として、安見は自分で自分の運命を「切り」拓いたことになる。

 安見の両親は彼が七歳の年に離婚し、それぞれがそれぞれの相手と再婚した。
 父母どちらにとっても、厄介な存在となった安見は、父方の祖父母に預けられ、そこで養育された。
 祖父母は、愛情を持って安見に接してくれた。
 それを安見は感じていた。
 長期の休みのたびに、子供だけを集めて連れていくキャンプに一人で参加させられることにも、疑問を持っていなかった。
 キャンプは楽しかったし、そんな休みを過ごすのはクラスでも安見だけで、どこか誇らしくもあった。
 だが偶然、見つけた写真の束から、幼かった安見は自分が「余計者」であることを悟る。
 その写真には、祖父母と、父と、その再婚相手と、その間に出来たのであろう子供たちが写っていた。
 遊園地や動物園や、そんな場所で、ずっと顔も見ていない父と、見知らぬ女と、自分に似ているような気もする子供たちと、祖父母が、自分に見せるのとは違う顔で笑っていた。
 安見はその間、他人の中で笑っていたのに。
 どん、と地の底に落ちたような感覚がした。
 自分は、この世界に、いらない、ものだ。
 自分さえいなければ、みんなが、しあわせなのだ。
 余計者。
 いらない、もの。
 それは、安見の自我形成において、中心の感情となった。
 けれど彼は、反抗や逃避で、自分の存在を示そうとはしなかった。
 祖父母にも何も尋ねはせず、黙々と勉強して、全国から秀才ばかりが集まる、その合格者が週刊誌に掲載されるような、中高一貫教育の学校に合格した。
 そして初めて、安見は祖父母と両親を嫌悪した。
 祖父母は手柄顔で自慢話ばかりをするようになり、会ってもいない父と母が、入学式に出席すると言ってきたのだ。
 安見は大人たちを拒否し、一人で学校に入り、寮で暮らした。
 大人たちからの、手紙も電話も受け取らなかった。
 出来る者しかいない学校の中でも、安見は成績が良かった。
 優秀だった。
 そうであればあるほど、安見の心に、余計者、の自分が意識される。
 褒められても、嬉しいと思ったこともない。
 ただ有難かったのは、特別奨学生に選ばれて学費が免除され、祖父母や父、母に気兼ねをせずに済むことだけだった。
 
 友人と呼べる者も持たず、外出日には一人で街に出た。
 人がいればいるほど、一人を痛感する。
 思いつきで買ったナイフを、ポケットの中で幾度も握る。
 その日も、そんなふうにして過ぎていった。
 人通りのない裏道だった。
 ふっと目に入ったのは、親子にしては年が近すぎ、兄弟にしては年が離れているように見える、青年と男の子だった。
 男の子は、幼児というようには見えなかったが、背の高い青年に抱きあげられていた。
 銭湯に行く途中なのか、タオルの入った洗面器を男の子がかかえている。
 折からの夕陽が、彼らを彫像のように浮きだたせる。
 男の子が、青年に何かを言った。
 青年が笑う。とてもととても鮮やかに。
「いーんだよ。俺は、おまえが世界一、可愛いんだから」
 くすぐったそうに、男の子も笑った。
 そのとき。
 安見の心に何かが走った。
 握りしめたナイフの柄を、引く。
 外に出す。
 刃を、向けた。
 そのまま、青年の腕に切りつけた。
 青年は、たいして動揺もしなかった。
 煩そうに顔をしかめ、安見の腕を締めあげる。
 ナイフが地面に落ちた。
 一瞬の出来事だった。
 抱かれた男の子は、声も出さずに、驚いたように目を見開いている。
 青年は、鬱陶しそうに言った。
「あーあ。服、駄目になっちまったじゃねーかよ。
 中の橋商店街で、150円で買った目玉商品だったのに」
「あの、おれ」
 安見にも、自分が何をしたのか、わからなかった。
 足ががくがくと震える。
 言葉が出ない。
 青年が、呑気に言った。
「あ、やべ。血が出てきた。あけや」
 男の子が、青年の手から滑りおりた。
「そこの兄ちゃんに、タオルを渡せ」
 男の子は手を差し出し、くりくりした目を安見に当てる。
「ぼーっとしてないで。包帯がわりだろうが」
 腕を目前に突きだされ、安見は、のろのろと手当てをする。
「ま、いいわ。じゃ、風呂、行くか」
「あ、あの」
 安見には、事態が把握できない。
「ガキ。てめーも行くんだよ。寒いんだろ?」
 寒いという季節ではなかった。夏も近づいていた。
 しかし、寒い、というのは、今の安見にぴったり合うような気がした。
 男の子が、安見の手を握った。
 顔を見上げて、にっこりと笑う。
 思わず、安見はその手を握り返した。
 男の子の反対の手を、青年が取った。
 青年と少年と男の子と。
 アンバランスな一行は、仲の良い親子のように、道を進んだ。
 
 風呂の中で、青年の名が三田広臣といい、男の子が明夜だと知らされた。
 安見も自分の名と、学校名を言った。
「明夜という字だと、みょうや、と発音して、月の良い夜のことではないのですか」
 安見が問うと、広臣は口笛を一回、吹いた。
「さっすが、アッタマのいい学校に通ってる奴あ、ガキのくせに言うことが違うわな。
 そうなんだけどさ、俺は、夜が明ける、という意味を込めた」
 明夜を洗ってやりながら、広臣は、ひどく優しく続ける。
「こいつの夜は、長すぎたからな」
 それ以上のことを、安見は問えなかった。
 
「パ、イ、ナ、ツ、プ、ル!」
 一音一音を区切りながら、明夜は、アパートの階段を登っていく。
 上まで辿りつくと、満面の笑みで振りかえり、手を前に出す。
 じゃんけん、ぽん。
 明夜と安見の声が、同時にあがって、今度は安見が階段を上がる。
 一人、地面に足をつけたままの広臣を、明夜と安見は、一緒に振りかえって笑った。
 広臣は、苦笑を浮かべた。
 
 飢えてるんだろ。の広臣の一言で、安見は共に食事を摂った。
 量だけにこだわったらしい広臣の炒飯は、かなりしょっぱかったが、美味かった。
 美味い、と安見は感じた。
 食べ終わると、窓を細めに開けて、広臣は煙草を吸った。
 気持ちのよい風が入ってくる。
 月は丸く、それこそ明夜だった。
 眠気がさしてきたのか明夜は、胡座を組んだ広臣の膝に甘える。
 顔を窓に向けたまま広臣は、その背を軽く叩いてやる。
 安見は、ぐっと拳を握った。
 ナイフはもう無い。広臣に取り上げられていた。
 湧きあがってくる感情を押しこめ、安見は正座をし、両手をついた。
 毛羽立った畳の目が、見えた。
「申し訳ありませんでした。おれ、警察に行って、自首します」
「はあ?」
 素っ頓狂な声をあげ、広臣が安見に向き直った。
 明夜は、とろんとした目を安見に当てる。
「だって、おれのやったことは傷害ですから」
「そりゃ、そーだけどな」
 広臣は、風呂から帰ってきちんと手当てをした腕をさする。
「おまえ、いくつ?」
「十五歳です」
「間違いなく少年だわな。前科はつかねーけど、少年犯罪ってややこしいし、結局、俺の得には、なーんにも、なんねえし」
 広臣は一度、煙を大きく吐いて、灰皿に押しつぶした。
「警察に行かなくてもいい。俺が許す。
 かわりに、俺のために一生、働け」
「は?」
 今度は、安見がきょとんとする。
「明夜も、似たような……いや、全然、似てないけど、まあ、そんなような感じで攫ってきたしな。
 俺のとこに、いろ。
 俺んとこにいれば、風が吹いても寒かない。
 腹は減るかもしれんが、飢えない。
 だから一生、俺に愛されて、働け」
 膝の上で、拳が震えていた。
 そこに、水滴が落ちた。
 自分が泣いていることを、安見は知った。
 声を出そうとして、唇がわなないてかなわず、ただ、首を縦に振った。 
 
 
 誰かに言ってほしかったのだ。
 ここにいてもいい、と。
 
 
   週末ごとに安見は、広臣と明夜のアパートに通った。
 炊事も洗濯も掃除も、すぐに広臣より上手くなった。
 家族ごっこを続けながら、安見は大学に進み、司法試験に合格した。
 広臣はコンピュータのソフト開発で名を挙げ、会社を設立した。
 明夜も大学を了え、作家として立っている。
 
 三田の懐刀と呼ばれる重原安見は、もう、そのポケットにナイフを持っていたりはしない。
 だが、心には刃をいだいている。
 己のためではなく。
 広臣と、明夜と。
 自分の居場所をくれた人のため。
 彼らに仇なそうとするものは、いつでも葬りされるよう。
 いつでも振るえるように、磨いている。
   
 
 
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