要は赤尾の論を展開するための、反駁材料としての発表であることは、妙子も周囲もじゅうぶんに承知していた。
だから、院生や学生たちは、妙子の仕事を手伝い、発表の準備に妙子以上に熱心だった。
「春日さんには、ほんとうに世話になってるし」
「赤尾先生のやり方は、汚いよな」
姐御には、いろいろ面倒をかけている。
また若さゆえの潔癖さが、権力や権威の不当性を嫌わせた。
この時点で、既に人の心は妙子に向かっており、赤尾は敗退している、とやはり妙子を補助している明夜は思った。
大学で作業を中断し、妙子と明夜は研究室から出て、外階段に座りこんで風に当たっていた。
明夜は、ぽつんと言った。
「どういう結果でもね、世論は妙さんの味方につくよ」
妙子はほろ苦く笑った。
「別にね、世の中に認めてもらいたいわけでも、赤尾先生を負かしたいわけでもないんだ、私は」
明夜は、表情に何故?を漂わせて妙子を見る。
「私は、ただ自分のやりたいようにしてきただけ。現在、言われてることが違う、実はこうだと発見してしまったら、どうにも気持ちが悪いから、ほんとうにそうなのか、研究を続けてきただけ。こういうさ、白黒つけないと気が済まない性格が結婚に向かなかったんだけど」
夜闇が深くなり、一つ二つ、星がきらめいている。
妙子がまだ大学院生だったときに、東都大学で、IT企業を成功させて時の人であった広臣を講演に呼んだ。
妙子は都合よく使われ、雑務に走りまわっていた。
広臣はその女学生に興味を覚え、それは好意となり、すぐに激しい恋情になった。
そして、結婚に至ったのだが、結婚生活は長くはなかった。
離婚は、妙子の側から言い出した。
最初の結婚のときは妙子が広臣に根負けし、離婚のときは広臣が妙子に根負けしたのだ。
広臣の恋情は、始まったときから今に至るまで、消えも弱まりもしていないことを、明夜は知っている。
「ねえ、妙さん。広さんと、もう一度、一緒にはなれないの?」
膝をかかえ、妙子を見ないで明夜は呟く。
「俺、広さんから離れるから。二人だけで暮らせばいいから」
「何を言ってるのよ」
妙子は嘆息した。
「あけちゃんの存在は関係無いって、ずうっとずうっと言ってるでしょ。私にとって、あけちゃんは、どこまでも可愛い後輩で弟分なんだから。ひろちゃん抜きで」
明夜の髪を、妙子はくしゃくしゃとする。
「誰のせいでも、誰の問題でもないの。私自身の問題。戦う相手は私自身」
低く抑揚がない声で、それでも強い決意をこめて妙子は言った。
明夜は、その決意を、形にして掴めるようにさえ思った。
普段なら、研究者だけが集う内輪の学会に、その日はマスコミ関係者も多く出席していた。
来聴自由となっているので、卒業生でなくても、どんどん入場できる。
学会をとりしきる教員や、手伝いの学生はてんてこ舞いしていた。
もちろん、目当ては春日妙子の発表である。
赤尾隆は早くから来て、前の席に陣取っていた。
論争の緒戦を切った思想家、後発の思想家、他の知識人も続々とやってきた。
滅多に顔を出さない、大御所の学者もいた。
どんなふうになるのだろう。
明夜は、端の目立たない席に小さくなって、緊張に胸を高鳴らせていた。
広臣は姿を見せなかったが、重原は、万が一の不測の事態に備えて、SPさながらの体勢を整えている。
妙子は落ち着いていた。
事前も。
壇に登ってからも。
豊富なデータを駆使し、高度な理論をわかり易い言葉で述べていく。
思想家が唸っている。
妙子は、論文も口頭の発表も許されず、研究室の事務に追われながら、同時の研究をきりひらいていったのだ。
自分自身のために。たった独りで。
見事だ。
明夜は、歓喜とともに胸の内で呟いた。
妙子が論を展開しおわり、司会が質問を受けつける旨を告げると、待ちかねたように、赤尾が手を挙げた。
「教員の赤尾と申します。春日先生は大変によく勉強されている、とかつて指導した者として嬉しく思います。だが、残念ながら、根本的な欠陥がある」
赤尾が言い放った瞬間、会場がざわめいた。
明夜は、手を祈りの形に組む。
妙子の論に、欠陥など見当たらない。
赤尾は、どう突ついてこようというのか。
朗々とした赤尾の声が響く。
それは既に質問ではなく、自説の展開だった。
こんなふうにするんだったら、始めから赤尾自身が壇上に立てばいいのに。
と、明夜が感じたと同じことを、会場じゅうがほぼ感じていただろう。
だが。と明夜は気を引き締める。
これが、手なのだ。ただ主張するより、相手の説を叩くほうが印象が強く、効果がある。
そして。
明夜は気付いてしまった。
赤尾は、妙子の論を崩すための材料を、ふんだんに用意し呈示してみせている。
そのデータの確かさが、赤尾のほうを正しいように見せている。
けれど。
明夜は気付いてしまった。
長い長い赤尾の質問が終わり、司会者が困惑したように、妙子を見る。
妙子は明夜を見た。
広い会場で、妙子と明夜の視線が合った。
妙子が頷いた。
ーいいわ。あけちゃんが、言ってやりなさい。
音になっていない声が、明夜の頭に聞こえてきた。
明夜は挙手した。
会場係が走ってきて、ハンドマイクを渡してくれる。
明夜は立った。
「卒業生の三田です。赤尾先生のゼミにいました。今の赤尾先生の質問に対しての質問なのですが」
目をつぶって大きく息を吸い、吐いてから、明夜は言った。
戻る 次へ