夜が明ける。8
 
 要は赤尾の論を展開するための、反駁材料としての発表であることは、妙子も周囲もじゅうぶんに承知していた。
 だから、院生や学生たちは、妙子の仕事を手伝い、発表の準備に妙子以上に熱心だった。
「春日さんには、ほんとうに世話になってるし」
「赤尾先生のやり方は、汚いよな」
 姐御には、いろいろ面倒をかけている。
 また若さゆえの潔癖さが、権力や権威の不当性を嫌わせた。
 この時点で、既に人の心は妙子に向かっており、赤尾は敗退している、とやはり妙子を補助している明夜は思った。
 大学で作業を中断し、妙子と明夜は研究室から出て、外階段に座りこんで風に当たっていた。
 明夜は、ぽつんと言った。
「どういう結果でもね、世論は妙さんの味方につくよ」
 妙子はほろ苦く笑った。
「別にね、世の中に認めてもらいたいわけでも、赤尾先生を負かしたいわけでもないんだ、私は」
 明夜は、表情に何故?を漂わせて妙子を見る。
「私は、ただ自分のやりたいようにしてきただけ。現在、言われてることが違う、実はこうだと発見してしまったら、どうにも気持ちが悪いから、ほんとうにそうなのか、研究を続けてきただけ。こういうさ、白黒つけないと気が済まない性格が結婚に向かなかったんだけど」
 夜闇が深くなり、一つ二つ、星がきらめいている。
 妙子がまだ大学院生だったときに、東都大学で、IT企業を成功させて時の人であった広臣を講演に呼んだ。
 妙子は都合よく使われ、雑務に走りまわっていた。
 広臣はその女学生に興味を覚え、それは好意となり、すぐに激しい恋情になった。
 そして、結婚に至ったのだが、結婚生活は長くはなかった。
 離婚は、妙子の側から言い出した。
 最初の結婚のときは妙子が広臣に根負けし、離婚のときは広臣が妙子に根負けしたのだ。
 広臣の恋情は、始まったときから今に至るまで、消えも弱まりもしていないことを、明夜は知っている。
「ねえ、妙さん。広さんと、もう一度、一緒にはなれないの?」
 膝をかかえ、妙子を見ないで明夜は呟く。
「俺、広さんから離れるから。二人だけで暮らせばいいから」
「何を言ってるのよ」
 妙子は嘆息した。
「あけちゃんの存在は関係無いって、ずうっとずうっと言ってるでしょ。私にとって、あけちゃんは、どこまでも可愛い後輩で弟分なんだから。ひろちゃん抜きで」
 明夜の髪を、妙子はくしゃくしゃとする。
「誰のせいでも、誰の問題でもないの。私自身の問題。戦う相手は私自身」
 低く抑揚がない声で、それでも強い決意をこめて妙子は言った。
 明夜は、その決意を、形にして掴めるようにさえ思った。


 普段なら、研究者だけが集う内輪の学会に、その日はマスコミ関係者も多く出席していた。
 来聴自由となっているので、卒業生でなくても、どんどん入場できる。
 学会をとりしきる教員や、手伝いの学生はてんてこ舞いしていた。
 もちろん、目当ては春日妙子の発表である。
 赤尾隆は早くから来て、前の席に陣取っていた。
 論争の緒戦を切った思想家、後発の思想家、他の知識人も続々とやってきた。
 滅多に顔を出さない、大御所の学者もいた。
 どんなふうになるのだろう。
 明夜は、端の目立たない席に小さくなって、緊張に胸を高鳴らせていた。
 広臣は姿を見せなかったが、重原は、万が一の不測の事態に備えて、SPさながらの体勢を整えている。
 妙子は落ち着いていた。
 事前も。
 壇に登ってからも。
 豊富なデータを駆使し、高度な理論をわかり易い言葉で述べていく。
 思想家が唸っている。
 妙子は、論文も口頭の発表も許されず、研究室の事務に追われながら、同時の研究をきりひらいていったのだ。
 自分自身のために。たった独りで。
 見事だ。
 明夜は、歓喜とともに胸の内で呟いた。
 妙子が論を展開しおわり、司会が質問を受けつける旨を告げると、待ちかねたように、赤尾が手を挙げた。
「教員の赤尾と申します。春日先生は大変によく勉強されている、とかつて指導した者として嬉しく思います。だが、残念ながら、根本的な欠陥がある」
 赤尾が言い放った瞬間、会場がざわめいた。
 明夜は、手を祈りの形に組む。
 妙子の論に、欠陥など見当たらない。
 赤尾は、どう突ついてこようというのか。
 朗々とした赤尾の声が響く。
 それは既に質問ではなく、自説の展開だった。
 こんなふうにするんだったら、始めから赤尾自身が壇上に立てばいいのに。
 と、明夜が感じたと同じことを、会場じゅうがほぼ感じていただろう。
 だが。と明夜は気を引き締める。
 これが、手なのだ。ただ主張するより、相手の説を叩くほうが印象が強く、効果がある。
 そして。
 明夜は気付いてしまった。
 赤尾は、妙子の論を崩すための材料を、ふんだんに用意し呈示してみせている。
 そのデータの確かさが、赤尾のほうを正しいように見せている。
 けれど。
 明夜は気付いてしまった。
   長い長い赤尾の質問が終わり、司会者が困惑したように、妙子を見る。
 妙子は明夜を見た。
 広い会場で、妙子と明夜の視線が合った。
 妙子が頷いた。
ーいいわ。あけちゃんが、言ってやりなさい。
 音になっていない声が、明夜の頭に聞こえてきた。
 明夜は挙手した。
 会場係が走ってきて、ハンドマイクを渡してくれる。
 明夜は立った。
「卒業生の三田です。赤尾先生のゼミにいました。今の赤尾先生の質問に対しての質問なのですが」
 目をつぶって大きく息を吸い、吐いてから、明夜は言った。
 
 
 
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