夜が明ける。9
 
「京の都を中心とする都市文学とする春日先生に対して、赤尾先生は全国展開とされました。多量のデータを示していただきましたが、お聞きする限り、京の都で書かれた京都人による文書ばかりで、実際に陸奥や筑紫に足を伸ばしたという実証がある人のものではありません。そこは如何、お考えですか」
 会場はしんとしていた。
 大量のデータ。
 そのデータそのものの考証は、基本中の基本だ。
 赤尾は渋面を作り、彼のデータのもととなった文献について、とうとうとまくし立て始めた。
 だが誰もが、明夜の答になっていないことを、大学に入ったばかりの一年生さえ感じていた。
 赤尾は言った。激したように。
「彼らは、ちゃんと陸奥や筑紫を知っている! 私は知ってるんだ!」
 その瞬間に、赤尾理論の全てが瓦解した。
 実証と帰納法で論を進める学問において、自分がこう思うから、などというのは同じ前提にも立てない。
 おどおどした感の強かった司会者が、ひどく冷静な声で「司会者として僭越ですが」と前置きし、妙子に尋ねた。
 陸奥や筑紫に行ったと公式の記録にある人々の文書に、記載があるかどうか、と。
 妙子は微笑した。
「善本と言われている内閣文庫本で確認しましたが、記載はまったくありません。全書において、そうです」
 勝負が決した。
 いくつか、確認のための質問が続き、赤尾の姿はいつのまにか消えていた。
 鳴り止まない拍手に送られて妙子が壇を下り、さっそくに思想家が近づいて行って、握手を求めていた。
 明夜はそれを目の端に留め、そっと会場を出た。
 会場の外には、重原がいた。
 彼はかすかに笑い、無言で頷いた。
 明夜も微笑だけを返し、そのまま校舎の外に向かった。
 勝ったのは妙子だ。
 しかし、なぜか胸が痛かった。
 
 
 赤尾は道化となった。
 道化にマスコミは容赦なかった。
 ここぞとばかり、ゴシップ誌が赤尾のプライベートまで書きたてた。
 当然、零が好奇の目にさらされる。
「こんなことを望んだわけじゃないわ」
 妙子は眉をひそめた。
 久し振りに、妙子は三田家を訪れていた。
 広臣と明夜と三人で夕食を囲み、家族の時代そのままに、和んでいる。
「私、ほんとうに赤尾先生を恩師だと思ってるのよ。今でも、いえ、今だからこそ」
「うん。おれもそう」
 共感できるのは、明夜だけだろう。
 かつてのゼミ生も、こぞって赤尾の欠点を並べ立てているのだ。
「でも、赤尾先生は、私を憎んでるわ。まったくの音信不通なんだ」
「うん」
 悲しい、と思う。明夜は思った。
 大切な先生だった。愛弟子として扱ってくれたのは、嘘ではないはずなのに。
「で、妙さん、九州に行くの?」
「行くよ」
 きっぱりと、妙子は言った。
 大学は統廃合が相次ぎ、生き残りをかけて必死である。
 これまでは教員の公募に応募しても、書類さえ売り通らなかった妙子だが、今回のことでマスコミによって名を売った結果になり、さっそくに九州の私立大学から誘いが来たのだ。
「研究を続けていくには、事務職でも、東都にいるほうがいいと思うがな」
 仏頂面で、広臣が口をはさむ。
「正論ね」
 妙子は頷く。
「だったら」
 強い目の光で、広臣は妙子を見据える。
「やってみたいんだ。独りで。何もかも最初から」
 しばらく表情を変えないで妙子を見ていた広臣が、ゆっくりとかむりを振った。
「妙子がそう言い出したら、終わりなんだよな。聞きゃしねえ」
「やっと、わかったね」
「行くから。九州」
「住所、教えないよ」
「はん。オレと、オレの優秀な秘書にかかって、わからないことがあるとでも思ってんのか?」
「……思ってない」
 明夜は、くすりと笑った。
 広臣と妙子は、新しいステージに向かうような予感がした。
 
 
 かつてないほど明夜は、書きたい、という欲求を感じていた。
 それなのに。
 おかしい。
 これまでのように、自然に文章が降ってこない。
 勝手に。
 明夜の身を借りるだけのようにして、降ってきていた文章はどこに行ったのだろう。
 
 
 経験したことのない感覚に戸惑いながら、明夜は大学に向かった。
 妙子はもう研究室にいないが、図書館で本を読もうと思ったのだ。
 けれど、文章が頭に入ってこない。
 明夜は、開放されているバルコニーに出た。
 名を呼ばれたような気がして振り向くと、この世のものでないほど、美しい少年がいた。
   その少年の名を、明夜は知っている。
 赤尾零。
 にっこりと、プログラムされていたかのように、明夜の視線を受けて、零は笑った。
「ぼくに殺されてくれますか。ぼくも死にますから」
 一音一音が、はっきりと明夜の耳に届いた。
 零の手元で、きらりと銀色のものが光った。
 
 
 
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