木の葉を離れて随分と長い時間が経つような気もするし、ほんの短い時間だった気もする。
どちらかはわからないが、里を立つまでは存在も知らなかった男を夫と呼び、奥さんと呼ばれることに、わたしが慣れてしまうには充分な時間だった。
わたしたちは草だった。
こつこつと情報を集め、やがて現れる作戦実行者のサポートをするために、わたしたちは穏やかな日常を演じているのだった。
作戦決行。もう、そんな日は永遠に来ないように思い出した頃、サクモさまがいらした。
木の葉の白い牙とおそれられる天才忍者、はたけサクモさま。
わたしは、サクモさまの姿を初めて見たときの驚きを、いつまでも忘れることはできない。
光と色彩が、サクモさまのまわりだけ違っていた。
サクモさまだけ、異空間か異次元に漂っているように見えた。
あまりに美しくて、美しいという言葉さえ、とっさには出てこなかった。
「お疲れでしょう。とにかく中でお休みくださいませ」
如才なく語を発するわたしの夫の役割を振られた男を、わたしは尊敬した。
「ありがとうございます。さっそくで申し訳ないですけれど、湯は使えますか?」
サクモさまはうっとりと微笑み、わたしに向かって言った。
「風呂をたてております。どうぞ」
これも、夫のほうが言った。
慌ててわたしは、用意をするために走って先んじた。
サクモさまは、遠方に住むわたしの姉という設定になっていた。
不自然すぎる。似ても似つかない。
無茶な決め方をした上層部を、わたしは恨んだ。
顔を伏せたまま、口早に浴室の使い方を説明するわたしの名を、サクモさまは優しく呼んだ。
「妹だから、こう呼んでいいのですよね?」
花が開くように笑み、サクモさまはもう一度、わたしの名を口にする。
「は、はい。お姉さまと呼ばせていただきます」
「うれしい。私、親もきょういだいも居たことがないから、すごくうれしい」
現金なもので、そう言われるとさっきの恨みはどこへやら、わたしをこの役目に選んでくれたことまで、上層部に感謝していた。
サクモさまはゆっくりと旅装を解き、世に名高い白光刀を棚に置く。
また、わたしの名を呼んだ。
「ごめんなさい。髪をほどいてくれる? 私、自分でほどいたら、いけないんです。ミナト様と約束したから」
「ミナト様?」
「そう、波風ミナト様。私は、ミナト様の物になったんです」
サクモさまは、蕩けるように微笑む。
ミナト、波風ミナト。サクモさまは当然、誰もが知っているかのように言うけれど、わたしは、しばらく記憶を探らなければならなかった。
そして、不意に、確かに、木の葉の者なら誰でも知っている名だ、と思い当たった。
三忍の一人、自来也様のお弟子で、金髪碧眼の美少年。
稀に見る天才で、十歳で下忍になってすぐ中忍になり、もう上忍になっているのではないだろうか。
しかし、あの子はまだ十三か十四のはずだ。
サクモさまのお相手には、幼すぎるのでは。
考えながら、わたしはサクモさまの髪紐をほどく。
さらり、とこぼれる銀髪は絹の手触りがした。
「ありがとう」
サクモさまは、はにかんだように言われた。
「ね、一緒に入りましょう」
そう、サクモさまは続ける。
自分の願いが聞き届けられなかったことなど、ないのだろう。
わたしも、サクモさまの願いなら、どんなことでも叶えてあげたい、という気持ちになっていた。
ましてや、この願いは、叶えてさしあげるのもとても簡単なものだ。
サクモさまはわたしの名をまた呼び、わたしの黒い髪と黒い瞳が、とても綺麗だと言った。
作戦そのものは、難しいものではなかったのだ。
サクモさまがいらした時点で、終わっていたも同然だった。
けれど、人間は命令を遂行するだけの機械ではなかった。
はたけサクモでさえ、そうだった。
草として、徹底的な教育を受けたわたしたちも、そうだった。
サクモさまは、身ごもっていた。
波風ミナトの子だろう、とわたしは夫に告げた。
夫は、渋い顔をした。
本来は医療忍者であり、医者としてこの土地に根付いている夫は、サクモさまの身体では出産は無理だと言った。
「妊娠したのさえ、不思議、いや奇跡だ。波風ミナトは、そんな術まで持っているのか」
冗談かと思って笑おうとしたけど、夫は真面目だったので、笑うのをやめた。
結局、夫が医者の口調で言った。
「お子様は諦めてください」
サクモさまは、不思議なことを聞いたというように、小首を傾げた。
「私の子です」
「サクモさまのお身体では、ご出産は難しいのです」
「でも、私の子です」
「お命の保証ができません」
「私はミナト様の物です。保証はミナト様がしてくださいます」
「そういうことではないのです。お子様は…」
「この子は私の子です」
埒があかなかった。
サクモさまは優れた忍者だった。
その分、人として、女として歪つだった。
狂っていないのか、狂っているのか、どちらかと問うなら、狂っているのだろう。
だが、それさえも、いえ、それだからこそ、愛しかった。
愛してしまうと、世界のほうを、サクモさまのために変えることが周囲の義務のような気がしてくる。
わたしは言った。
お子様を、わたしのからだに移せないか、と。わたしがかわりに産むのはどうか、と。
「受精卵の段階なら、別の子宮に移すことはするが、しかし」
夫もまた、サクモさまを愛してしまっていた。
そして、わたしを愛していた。
サクモさまとわたしと双方が望んだら、その通りにするしか無い。
夫は、非常に優れた医療忍者だったのだ。
サクモさまのお子様は、わたしのお腹で順調に育っていった。
サクモさまは、不思議そうに小首を傾げて、わたしの膨らんだ腹部をさわる。
「サクモさまのお子様です。わたしではありません。サクモさまがお産みになるんです」
繰り返し、わたしは言う。
満足したように微笑み、サクモさまとわたしは肌を合わせる。
サクモさまは、欲望も、性行為も、どうしても理解できないようだった。
美しい姿で、どんな人間の欲望も引き出しながら、自分ではそれを理解していない、サクモさま。
愛しすぎた。
作戦が完了した時期に合わせるように、わたしは子を産んだ。
いや、サクモさまが産んだ。
瞳の色だけがサクモさまと違って黒い、他はサクモさまそのものの、銀色の髪に黒い瞳の男の子だった。
サクモさまは、赤ん坊を抱きしめたら、もう離さなかった。
わたしに似ている、と言った。
わたしにそっくりな、黒い髪に黒い瞳の、可愛い女の子だと言った。
サクモさまがそう言うのなら、その通りなのだ。
サクモさまのお子様は、黒髪で黒い瞳の女の子。
わたしは、サクモさまに、その子をお渡ししなければならない。